「しほ(塩)」の動詞化。その潮解性により、「しほ(塩)」という言葉には、濡れる、溶け崩れるような状態になる、という意味がある(→「しほたれ(塩垂れ)」の項・12月20日)。それによりこの「しほ」は(つまり、この「しほり(霑り)」という動詞は)、(水や潮(しほ)などに)濡れることだけではなく、「しほらし」のそれと同じく、存在主張せずに濡れ崩れ環境に応じ変容自由な状態になることを表現する。

この語は松尾芭蕉の俳句の理念の一つになったそれです。これは「しをり」と書かれることも多いようです。「しほり」「しをり」・「しほれ」「しをれ」は表記も意味も混用される。調味料の「しほ(塩)」も「しを」と書かれたりする。

動詞「しほれ(霑れ)」もある。これは客観的対象を主体とする自動表現。この「しほれ」は「しをれ」と書かれることが多いように思われる。「しひをれ(廃ひ折れ)」という語感がはたらくのでしょうか。しかし、木の枝を折ったり、弓を撓(たわ)めたり、人を折檻したりする「しをり」の自動表現「しをれ」は花が枯れいくように萎えていくことなどは意味しない。それを意味するのは「しほれ」。ただし、「しをり」の自動表現たる「しをれ」という語はある→「辞(こと)繁み相問はなくに梅の花雪にしをれて(之乎禮氐)うつろはむかも」(万4282:この「しをれ(之乎禮)」は一般に「しほれ」と解され、たとえばネットにはこの歌に関し次のような現代語訳が書かれる。「人の口がうるさいので訪問しないままでいる内に、梅の花が雪にあたって散ってしまうかもしれないと思う」。しかし、この歌は宴で披露された主人の歌であり、そのような歌を宴で歌うことはそうとうに異様です。この歌の冒頭で「こと」と読まれる「辞(ツィ)」はようするに「詞(ツィ)」でしょう。ようするに、相互に交流される言葉であり、互いのおしゃべりです。それが繁み、さかんに生い茂るように現れ、相互に親しくなり、すべてを知り合い、とくに問いあうようなことがなくても、梅の花が雪に「しをれ」て、雪に「しをり」を受けて、変化していく(春へ向かっていく)、ということでしょう。つまり、この「しをれ」は「しをり」の自動表現。意味は(行くべき道を知らせる)「しをり」を受けた状態になること。「しをり」に関してはその項。「うつろひ」に関してもその項(これは明日・12月24日の予定))。

「宮垣(みかき)壞(くづ)れて脩(をさ)むること得(え)ず。殿屋(おほとの)破(やぶ)れて衣(おほみそ)被(おほみふすま)露(つゆにしほ)る」(『日本書紀』)。

「昨日しほれ暮らし、今朝のほど、秋霧におぼほれつる女房など」(『紫式部日記』:これは「しほれ」の例。昨日は疲れ果て、濡れた衣のようにぐったりしたということ)。

「汐 シホル 袖」「汚 シホル 衣」(『温故知新書』)。

「盆々々はけふ翌(あす)ばかり、あしたは嫁のしほれ草」(『浮世風呂』)。

「いとど、身のおき所なき心ちして、しほれ(志本連)ふし(伏し)給へり」(『源氏物語』「総角(あげまき)」:これは現在国立国会図書館所蔵の、1頁めに「亀田文庫」なる朱印のある全54巻の当該部分を写している。この「しほれ」は、紙であれインターネットであれ、一般に流布しているものでは「しをれ」になっていると思われるのですが、この写本では原文は「志本連」の変体仮名になっている)。

「しをりは自然のことなり。求めて作すべからず」「野明曰。『句の「しをり」「ほそみ」とはいかなるものにや』。去来曰。『「しをり」は哀れなる句にあらず。……「しをり」は句の姿にあり…』」(以上『去来抄』:この芭蕉俳句の「しをり」は「しほり」でもあり、力を加えられ柔軟、そして強靭に撓(たわ)む「しをり」でもあるということか)。