「しひひいに(廃ひ霊去に)」。「しひ(廃ひ)」「いに(去に)」はそれぞれの項参照。問題は二番目の「ひ(霊)」(→「ひ(霊)」の項)です。この「ひ(霊)」が無い「しひいに(廃ひ去に)」は、際限なく廃ひが進行し完了感・終了感が生じた(「しひ(廃ひ)」という動態が進行し、完了し、その動態はなくなる)、という意味にしかならない。それは「明け行き」の「いき(行き)」(その完了)と同じような用法で「いに(去に)」が用いられているような事態になる。つまり、ただ、(終了的に)廃(し)ひている、という表現です。この二番目の「ひ(霊)」は「たましひ(魂)」の語尾にもある「ひ」です→「ひ(霊)」の項・「たましひ(魂)」の項。この廃(し)ひた、無機能化した、「ひ(霊)」が「いに(去に)」の状態になること。進行が完了してしまうこと。遊離進行し、なくなってしまうこと。それが「しに(死に)」。古くはただ「しに(死に)」ではなく、「いのちしに(命死に)」という表現があった。「命しぬべく恋ひわたるかも」(万599)。「命しなばいかがはせむ」(『竹取物語』)。
この語の活用は元来はいわゆるナ行変格活用と言われるそれですが、後に四段活用に変化していく。あるとき急激に変化するのではなく、室町時代ころから少しづつ変化する。「死ぬること」「死ぬれども」(ナ行変格活用)・「死ぬこと」「死ねども」(四段活用)。
「死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪(しろかみ)子らに生ひずあらめやも」(万3792)。
「…ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 壽(いのち)死にける(死祁流) 水江の 浦島の子が 家どころ見ゆ」(万1740:「由奈由奈波(ゆなゆなは)」は一般に語義未詳とされますが、「やふにややふにあは(『や』経にや、『や』経に、あは…」)ということでしょう。「や」は怪(あや)しみ・疑惑を表現し、なにかことがあったのか?(『や』経にや)という疑惑が経過するその経過に(『や』経に)、あは…、ということであり、最後の「あは…」は悲嘆的嘆声。全体の意味は、なにかことがあったとは信じられない経過で、あっという間に、たちまち、あは…、ということ。肌も皺(しわ)み髪も白くなり、なにかことがあったとは信じられない経過でたちまち息絶えてしまった、ということ。これは『万葉集』にある「水江浦島子(みづのえのうらしまのこ):浦島太郎」の伝説の最終部分。「浦島太郎」の伝説は『釋日本紀』巻十二にある「丹後国風土記逸文」がもっとも詳しいです、『万葉集』にも簡単なものがある。原形と御伽草子的な後の「浦島太郎」では話の異なる部分もある)。