「しつふりはひ(「為つ」振り這ひ)」。「為(し)つ」の「つ」は完了の助動詞であり、「為(し)つ」は、(なにごとかを)為(し)た、ということ。「ふり(振り)」は、何かを感覚的に触れる情況に(感覚的に感知される存在の現れに)すること(→「ふり(生り・振り・遊離り)」の項・「たまふり(魂生り)」)。「はひ(這ひ)」は情況が現れる。すなわち、「しつふりはひ(「為つ」振り這ひ)→しつらひ」は、(なにごとかを)為(し)た、ということが感覚的に感知される、感覚的に存在が現れる、情況になること。たとえば「座敷に床の間をしつらひ」と言った場合、家を増改築し床の間を作るのではなく、座敷に、「床の間を作ることをした」と感覚的に感知される、感覚的に床の間の存在が現れる、情況になる。これは、時間的空間的に固定的・安定的ではないが、そうあるべ情況を現出させる、といった意味にもなる。たとえば、前触れもなく重要な客が訪れ、「座敷をしつらふ」は、日常生活の状態であった座敷を、それに対応する措置として、重要な客を入れてもよい状態に、それを為(し)た、という得るあるべき状態に、する。「かりそめなれど、清げにしつらひたり」(『源氏物語』:これは座敷をしつらへた)。動態や処置に関しても言い、それを為(し)た、と言いうる、あるべき、動態を現し、処置をする。また、この語は抽象的なものごとに関しても言い、たとえば「恩(オン)をしつらひ」と言った場合、ありもしない恩を捏造するのではなく、自己も、他者も、それを忘れないようにするため、「恩をうけている」ということが感覚的に感知される、感覚的に存在が現れる、情況になる。後者は、現代語訳なるものでは、飾る、や、装飾する、と表現され、そうした印象になりもするが、飾り、美化するわけではなく。なにごとかを特定強調的に提示する。
この語はその動態がものやことへの働きかけという外渉的なものであり、活用語尾は外渉的なE音へ変化し、後に「しつらへ」に、つまり下二段活用に、なる。
「僧鋼(そうがう)の方(かた)は君(きん)だちしつらひ給ふ」(『宇津保物語』:「僧鋼(そうがう)」は、高位の僧官のような意で用いられているのでしょう。その人たちに対応すること、その人たちをその人たちにふさわしい、あるべき、扱いをすること、は君(きん)だちがおこなったということ。これは上記の動態や処置に関してのそれであり、それを為(し)た、と言いうる、あるべき、動態を現し、処置することを「君(きん)だち」がおこなった)。
「仏の法を荘(かざ)り厳(しつらふ)」(『東大寺風誦文稿』)。
「今は昔、逢坂の関に、行き来の人に、物を乞ひて世を過ぐす者ありけり。よろしき者にてありけるにや、さすがに琴なども弾き、人にあはれがらるる者にてなむありける。あやしの草の庵を作りて、藁といふ物かけて、しつらひたりけるを、人の見て、『あはれの住処のさまや。藁してしつらひたる』など、笑ひけるを聞きて詠める。
世の中はとてもかくてもありぬべし宮も藁屋もはてしなければ
蝉丸(せびまろ)となんいひける」(『古本説話集』「蝉丸事」全文)。