「シダイら(次第ら)」。「次第(シダイ)」は事の次第(シダイ)というそれ。順序や経過をいう。この語は中国語であり、21世紀の中国でも用いられている(音(オン)は、スーティー)。「ら」はそれが複数あることを表現しているが、個別具体的な特定性を表現せず、そんな情況、のような表現をするものであり、表現される何かに対する尊重感が乏しい(ある場合には具体性を不存在化させるような侮蔑感さえある)。たとえば複数の百姓を「百姓たち」「百姓ども」「百姓ら」と言った場合、「百姓ら」が最も百姓に対する尊重感が乏しい(それに対する侮蔑さえ表現する)。「シダイら(次第ら)→しだら」も、ことの順序や経過、それによる当事者の事情を意味するが、それに対する尊重感は乏しく、ある場合には侮蔑さえしている。

「『…明暮(あけくれ)の願ひ事かなはぬのみか此のしだら。………因果が廻(めぐ)り来ました』と又伏し沉(しづ)み泣き居たり」(「浄瑠璃」『生玉心中』)。

「茫然として惣七、『親父(おやぢ)の耳へ入(い)るからは、世上に知れたに極(きは)まった。四日市には思ひ寄る方(かた)もある。…遁(のが)るるだけは遁れて見ん。…さァ用意』といふ所に、『惣七宿にか。早い門(かど)のさしやう』と、潜戸(くぐり)を明けてつつと入るは毛剃九右衛門。……………九右衛門うさん顔、『黙りや黙りや惣七。………こりや宿替(やどがへ)と見えた。何とした仕だらで何方(いづかた)へ立ち退きやる』」(「浄瑠璃」『博多小女郎波枕』:どういう次第、どういう事情で) 。

「牧師さんや伝道師さへ斯ういふ品行(シダラ)ぢゃア」(『社会百面相』(1902)内田魯庵:人の次第)。

「しだらもない」は上記の意味の「しだら」さえない。「しだらのない」は、「しだらもない」により「しだら」が、最低限なければならないこと、という印象に成り生まれた表現。「の」が省略されて「しだらない」にもなる。「まぶちははれて前髪はしだらなくさがるのをきれい(綺麗)な細い手でちよいと上へなでて………しだらのない帯を取てほうり出し…」(「人情本」『春色辰巳園』)。

「だらしない」はこの「しだらない」の転語と言われますが、そうではないでしょう→「だらし」の項。意味が微妙に異なる。