「したあだみ(下徒見)」。下(した)を徒(あだ:空(むな)しいこと)に見るもの、下を見て探した甲斐のないもの、の意。これは小さな巻貝類の総称。肉量的にも味的にも、ほとんど食用にならない(食べられないこともない)。「小蠃子 …… 和名之多多美」(『本草和名』)。

「所聞多祢の 机(つくゑ)の島(しま)の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 早川(はやかは)に 洗ひ濯(すす)ぎ 辛塩(からしほ)に 古胡登(ここと)揉(も)み 高坏(たかつき)に盛り 机(つくゑ)に立てて 母にまつりつや(都也) 目豆兒乃負 父にまつりつや(獻都也) 身女兒乃負(万3880)。

この歌の一句「所聞多祢」は字音により「そもたね」であり、「そもたねの」は、「そも種の」。それも命を育(はぐく)む種(たね:そのもととなるもの)の、の意。現在、この部分は一般に「かしまね(鹿島嶺・香島嶺)」と読まれている。「所聞多」、すなわち、聞(き)く所(ところ)多(おほし)、は喧(かしま)しいからだそうです。この語は「机(つくゑ)の島(しま)」にかかるわけですが、この表記は、名高い、という意味でもあるのでしょう。

「机(つくゑ)の島(しま)」は、「つくゑ(机)」の原意は「つき(調・貢物)」を乗せる(盛る)台であり、形体的にそうした印象の島がそう呼ばれることは各地にありますが、この島は現・石川県七尾市にある机島とも言われる。この島は「種ケ島」と呼ばれる島につくような小島ですが、それで「所聞多祢(そもたね):それも種(たね)」ということかもしれません。

「古胡登(ここと)」は、擬音による、きゅっきゅっと、のような表現であり、全体を一体化し揉み込むように揉む。

「奉都也」は、饗(あ)へつや、と読む人もいる。しかし、「あへ(饗へ)」はもてなしであり、この場合、意味が不自然でしょう。

「目豆兒乃負」は、「目豆(めづ)」は動詞「めで(愛で)」の終止形であり、「目豆兒(めづこ)~」は「(私は)愛(め)づ。子(こ)~」という表現になっている。末尾の「負」は「刀自(とじ):一家の主婦、のような意」の誤字・誤記であるとして、この部分は一般に「めづこのとじ(愛づ子の刀主:愛らしい子の刀自(主婦)、のような意だという)」と解されている。原文(西本願寺本)にあるこの句末の「負」ですが、『説文』のこの字の説明に「恃也」とあり、『小雅』(『詩経』の分類の一)に「無母何恃」(「恃(ジ)」の読みは、たのむ)とあることから「恃」は「母」の別称の状態になっている。つまり、「恃」は「母」の別称であり「恃」は「負」であり、「負」は「母」の別称として用いられているということでしょう。つまり、誤字ではなく「負」のままで読みは「はは」。全体は「愛(め)づ。兒(こ)の負(はは)」ということになる。

最終句「身女兒乃負」の「身女兒」は「み、めこ」であり、意味は、「身は(小さな)女の子」。「身女兒乃負」は、「(小さな)女の子なのに母」。これはこの前の「目豆兒乃負(愛(め)づ。子の母)」の補強説明のような句であり、「兒乃負(子の母)」と言っただけでは、子なる母、なのか、(その子を産んだ)子の母、なのかあいまいであり、意味は前者であることを言っている。

歌全体の歌意は、幼い女の子が、一般の人がほとんど食べない、その意味では貧しい、シタダミをたくさん集めてきて、殻を割り、身を濯ぐなどし、これを調理している。まるで子をもつ母のように。そしてそれを高坏(たかつき)に盛り、これを机(つくゑ)に立てて(この机もその女の子が、これを机に、と工夫したものでしょう)、これを供物のように飾った。そしてそれは、母に奉(まつ)ったのか? 父に奉(まつ)ったのか? つまり、この子は父と母がいないのでしょう。その子が、まるで母が子を育(はぐく)むように母や父に食べ物をつくり、供えている。