「しとはてはか(為と果て努果)」。「はて(果て)」は、動態やものごとがその動態やものごととしてありうる極限・終局にいたることですが。「しとはて(為と果て)」は、なにごとかをし果てる、すべて為(す)る、のではなく思念としてそのことの「し(為)」に終局的にいたっていること(「し(為)」が「と」によって思念的に確認される状態になって果てている、ということ)。「はか(努果)」は努力の成果。すなわち、「しとはてはか(為と果て努果)→したたか」は、そのことの「し(為)」に思念的として終局的にいたっている努力の成果が思われること。たとえば「したたかに紐を結べ」ば、結ぶという行為が思念として終局的である努力の成果たる結びがそこにある。だらしないいい加減な結びはなされていない。落馬してしたたかに腰を打てば、打つという行為が完成的に、終局的になされた状態で腰を打つ。蕎麦をしたたか食えば、食うという行為の終局にいたるほど蕎麦を食う。取引における交渉相手の女社長がしたたかであれば、その女社長はその交渉を、思念的に、終局的に果てているほど心得ている。

「御(おん)はかし(佩刀)のを(緒)したたかにむすびたれ(結び垂れ)…」(『宇津保物語』)。

「…その上、物狂はしくて、西をさして走り出でんとしければ、したたかなる者共六人して取りとどめけるに、その力の強きこと、いふばかりなし」(『古今著聞集』:力仕事をし果てる(完全に成し遂げる)印象の、力も強く壮健な、者ども六人)。

「さて御うれへのところは(愁訴した所領は)、長く論あるまじく、この人の御領にてあるべきよし、仰せ下されにければ、もとよりいとしたたかに領じたまふ」(『大鏡』:それが自分の領地であることに反省や疑問など問題にならない状態で領有した)。

「順禮に御法施で貰(もら)ひ溜(だめ)の米も有れど。たつた今跡の(たった今跡にした)石場で。蕎麦をしたたかしてやったりや」(『ひらがな盛衰記』:「石場」は岡場所であろう)。

「『それもあの女が並の者なら何も心配にも及びませんが。何分(なにぶん)御存知の怜悧(したたか)ですから』」(『内地雑居未来の夢』(1886年)坪内逍遥)。