文法で過去・回想の助動詞「き」の已然形と言われている「~しか」です。これは「しかは(し彼は)」。
「しかは(し彼は)」の「し」は過去・回想の(記憶再起の)助動詞「き」の連体形と言われるそれ。たとえば「言ひし~」と言った場合、言った「~」、言った記憶が再起する「~」が表現される。
「か(彼)」は推想感が作用するだけといった状態で何かを指し示す「か」。「あれ」のような意。つまり、たとえば「言いしか」は、言った「彼(か)」、言った記憶が再起する「か(彼:あれ)」。
「は」は何かを提示(提感)する(助詞の「は」)。その提示により、それに続く表現が「~は」で提示されるその条件下におかれる(「は」による条件表現。「は(助)」の項参照)。たとえば、「あの人は男」と言った場合、「男」は「あの人」の条件にある男であり、あの人ではない他の人は男かどうかは不明。この「あの人」「男」は名詞ですが、これがどちらも主語・述語のある文になり「文Aは文B」と言われた場合も、文Bで言われていることは文Aで言われていることの条件における文Aで言われていることになる。「青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし」(万821)。
「しかは(し彼は)→しか」は、たとえば、「昔こそよそにも見しか吾妹子が奥つ城(き)と思へばはしき佐保山」(万474:「奥つ城」は墓所のこと)は、「昔こそよそにも見た彼(か・あれ:佐保山)」という条件のもとで、妹の奥つ城と思えば佐保山は愛(は)しき、ということ。
この「見しか」は意味的には「見たが」に似ている(「文Aは文B」は「文Aが文B」に意味が似ているのです。「よそにも見たそれは奥つ城と思えば愛(は)し・よそにも見たが奥つ城と思えば愛(は)し」)。昔の表現をすれば「見けれ」(見たが…)にも意味は似ている(「けれ」は助動詞「けり」の已然形(動態の結果を表現しない動詞已然形と「~は」によりなにごとかを提示し結果を言わない、結果はそれに続く表現にまかされる、表現は似ている))。この「しか(助動)」は、前記のように、文法的には過去・回想の助動詞「き」の已然形と言われる。たしかに動詞や助動詞の已然形に意味合いは似ているのです。しかし、この「しか」は「き」(終止形)や「し」(連体形)が活用変化して「しか」になっているわけではない。しかし、「言へば」や「言へど」の「言へ」は已然形なので、「しかば」や「しかど」にあるこの「しか」は過去・回想の助動詞「き」の「已然形」と言われる。
「昨日(きのふ)こそ早苗(さなえ)取りしかいつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く」(『古今和歌集』)。
・「しかど」
「しかにと」。上記の助動詞「しか」に動態を形容する助詞「に」と思念的に何かを確認する助詞「と」がついているもの。動態を形容する助詞「に」とは、たとえば「爽やかに笑ふ」。「と」は思念的になにかを確認する。つまり、「しかにと→しかど」は、上記の意味で「~し」たる「か(彼)」の動態状態「と」、ということであり、たとえば「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは(昨日今日とは)思はざりしを」(『伊勢物語』)。(誰もがつひにゆく道とは)かねてより聞いていた「か(彼:あれ)は」という動態状態と、そういう動態状態で、昨日今日とは思わなかった(かねて聞いていれば常にこころがけていそうなものだが…)。これは病気になり、自分が死ぬのではないかと思った男の歌。
「『故宮の御ありさまは、いとなさけなさけしく(情愛深く)、めでたく、をかしくおはせしかど、(私を)人数(ひとかず)にも思(おぼ)さざりしかば、(私は)いかばかりかは心憂くつらかりし。…(それに比べ、現在の夫・常陸介(ひたちのすけ)は…)』」(『源氏物語』)。
・「しかば」
「しかをは」。「しか」は上記の助動詞「しか」。「を」は状態を表現する。「~しかはをは」ということであり、最後の「は」もなにごとかを提示し、「彼は」と提示したそれをは、ということであり、「しか」で提示された内容がさらに提示強調されている。「しかば」に続く部分がその提示強調された条件に置かれる(「しかば」に続く部分はその提示強調された条件でのこと)ということです。つまり、「~しかば」は、「~しか」よりも、「~」の動態の驚きや衝撃性などが強く、その「~」の影響性が強調表現されている。
「帰りける人来たれりと(人が)言ひしかばほとほと(ほとんど)死にき君かと思ひて」(万3771)。誰かが「(流罪を許されて)帰って来た人が来た」と言った「か(彼)」は、その状態は、ほとんど死んでしまうものだった(死にそうになるものだった)。あなたが帰って来たかと思って、思いがたかまり死にそうになった。
「住吉(すみのえ)の里行きしかば春花のいやめづらしき君にあへるかも」(万1886:最後の「かも」は詠嘆表現)。