「さ」はS音の動感とA音の全感、それゆえの情況感により情況的に動きを表現する。それは動感・変動感であり、「さり(去り)」は変動情況が進行していること、変動することが表現される。有る何かに変動が生じればそれはなくなり、無い何かに変動が生じればそれはあるようになる。古くは、「さり」は、ない何かが「さる」こと、ない何かが「有(あ)る」になること、も言われましたが、後には、「さり」は、有(あ)る何かが「ない」になること、を表現することが一般的になっていく(→「多くの友人たちがさっていった」)。また、何か(A)に関し自動的に「さる」ことも言い、それは「Aをさり」と言われる(「家をさる」:これは、家を出ていく、関係として家から離れる、という意味ですが、「を」は目的を表現するわけではなく、動態の状態を表現し、家という動態状態で情況的に動感・変動感が生じればそれはその人の家という安定的関係に動揺・変動が生じていることが表現される)。また、他動的に何かに変動を生じさせることも言い、有る何か(A)に変動を生じさせればそれはその何か(A)を遠ざけたり居なくならせたりすることであり、それも「Aをさり」と言われる(→「罪をさる(罪をなくす)」)。
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「春さらばあはむと思(も)ひし梅(うめ)の花 今日(けふ)の遊(あそ)びにあひ見つるかも」(万835:この「春さらば」は、春でなくなったら、ではなく、春になったら。「春さらば」は、春ではなくなったら、も、春になったら、も、どちらも意味する。「夕(ゆふ)されば」も、夕でなくなったから、も、夕になったから、も、どちらも意味する。そのどちらであるかはそこで言われている文全体から判断される。この歌で言えば、春でなくなったら会うおうと思っている梅の花、という表現は不自然なのです。「さらば」「されば」に関しては下記※)。
「春さればまづ咲く宿の梅の花」(万818:春だから…)。
「風まじり雪は降りつつしかすがに霞(かすみ)たなびき春去(さ)りにけり」(万1836:春ではなくなった、ではなく、春になった。「しかすがに」は意外なことが起こっていることの感銘を表現する)。
「畝火山(うねびやま)昼は雲とゐ夕されば風吹かむとそ木の葉さやげる」(『古事記』歌謡22:「とゐ」は急速感をもって生(お)ふこと。もう夕だ、不穏なことが起こっている)。
「ゆふされば衣手さむし……よしのの山にみゆき降るらし」(『古今集』:夕だから…)。
「…天皇(すめらみこと)の璽(みしるし)を上(たてまつ)る。雄朝津間稚子宿禰皇子(を あさづま わくごのすくねのみこ)謝(さ)りて曰(のたまは)く。『………』」(『日本書紀』:璽(みしるし)をさった(遠ざけた)のではなく、璽から去った(遠ざかった))。
「色さりやすき花ざくら」、「時うつり 事さり…」(ものごとが移り変わっていく)。
「『…み心をのみ惑(まと)はして去(さ)りなむことの悲しく耐へがたく侍(はべ)る也…』」(『竹取物語』:かぐや姫が翁嫗(おきな・おうな)のもとを去る。そこから移動しいなくなる)。
「朝去らず来(き)鳴き響(とよも)す鶯(うぐひす)の聲(こゑ)」(万1057:朝(あさ)という事象を離れることなく。毎朝)。
「なほしばし身をさりなんと思ひたちて…」(『蜻蛉日記』:この「身をさる」は寺籠りのようなことをする)。
「枕さらずて夢にし見えむ」(万809:この「見え」は、自発ではなく、受け身でしょう。あなたの枕辺を離れることなく(それほどあなたを心にかけ、あなたを思いつづけよう、ということ。古くは、ある人を思っているとその人の夢に自分が現れるという思いがあった)。
「御位をさり」(『源氏物語』:地位を離れた)。
※ 「~さらば」は、去ったら、という仮定推想であり、「~されば」は、いま~になっているから、という現状推想です(→「ば(助)」の項)。
(他動)
21世紀ではほとんど用いられませんが、他の何かに動的作用を生じさせることを意味する他動表現の「さり」がある。たとえば、「彼が地位をさる(去る)」、ではなく、「彼を地位からさる(去る)」。「とりさる(取り去る)」にもある「さり」です。
「然(しか)れども皆國は、大國主神に避(さ)りき。避(さ)りし所以(ゆゑ)は……」(『古事記』:「皆」は、ことごとく、か。国はすべて大國主神に譲(ゆづ)った、のような意味になる)。
「俗なる心、俗なる詞、俗なる風情をされといへり」(『十問最秘抄』(歌学書):離し、どこかへやってしまえ、ということ)。