◎「さや(莢・鞘)」

「さふや(障ふ屋)」。何かの自由な移動の障害になる(つまり中に何かを閉じ込める)家のような印象のもの、の意。「さふ(障ふ)」は自動表現「さひ(障ひ)」(7月21日)の連体形。この言葉は刀の「さや(鞘)」よりも豆の「さや(莢)」(※)が先にあるものでしょう。たぶん(平安時代の辞書には刀の「さや」はありますが、豆のそれはない。しかし『宇津保物語』にその語はあるわけですから、平安時代に「さや(莢)」がなかったわけではない。辞書の著者にそれは俗語扱いされたのかもしれない)。「りざや(利ざや)を稼ぐ」という表現もありますが、この「さや」は、正身の利に覆いかぶさりこれを膨らませている部分(これも利)、ということでしょう。時間的空間的事情によりその利に差があればそれを機会として利用しもうける。

※ 「さや(莢)」は植物学的には種子を覆う果実ですが、豆を覆う皮の状態のものであり、乾燥すれば殻(から)の状態になる。

「人は十五人、漬豆(つけまめ)を一さや宛に出(いだ)すとも、十(とを)余(ま)り五つなり」(『宇津保物語』)。

「鞘 ……サヤ」「鞞 …タチノサヤ」(『類聚名義抄』)。

 

◎「さや」

情況的に動感を表現する「さ」。「や」は情感的詠嘆発声。情況的動感ゆえの新鮮さ、それゆえの爽やかさ、明瞭さ、が表現される。

「菅畳(すがたたみ)いやさや敷きて」(『古事記』歌謡20)。

「日の暮れに碓氷(うすひ)の山を越ゆる日は夫(せな)のが袖もさやに振りらしつ」(万3402)。

◎「さや」

「さ」は擦過音を表現する擬音。「や」は詠嘆。総合的に「さや」は擦過音を表現する擬音。「さやさや」という連音は動態の持続を表現する。

「…み山もさやに落ちたぎつ芳野(よしの)の河の…」(万920:これは擦過音ではあるが、水)。

「門中(となか)の海石(いくり)に触れたつなづのきのさやさや(佐夜佐夜)」(『古事記』歌謡75)。

 

◎「さやか(分明)」

「さえやか(冴えやか)」。「さえ(冴え)」はその項(5月19日)。ここでは情況一変感・明晰感を表現する。「やか」は「はれやか(晴れやか)」その他の、情況を心情的確認感銘的に表現するそれです(「~やか」に関してはその項)。明晰感があること。

「あききぬとめにはさやかに見えねども…」(『古今集』)。

◎「さやけし(分明し)」(形ク)

「さや」はその項(上記:新鮮さや明瞭さを表現するそれ)。「けし」もその項(下記に再記)。つまり、「さやけし」は、 「さや」であることに満ち足りた、感服した思いを感じている。

「八月廿余日、宵過ぐるまで、待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく…」(『源氏物語』)。

「懭怳 分明也 寛明也 佐也介志 又何支良介之」(『新撰字鏡』:「何」は「阿」の誤字でしょう)。

「剣太刀(つるぎたち)いよよ研(と)ぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ」(万4467)。

 

◎「けし」(2021年12月22日の再記)

たとえば「はるけし(遥けし)」(形ク)の場合、「はるこえし(遥此歓し)」。「はる(遙)」は「はるばる(遥遥)」などのそれ→「はるか(遙か)」の項。その「はる(遙)」を「こ(此)」(これ)と特定強調的に気づき確認し、「えし(歓し)」(形ク)は満足を感じるもの・ことであることを表現する(その項)。すなわち、「はるこえし(遥此歓し)→はるけし」は、遥々(はるばる)としていることを強調提示しそれに満ち足りたような・感服したような、思いにあることを表現する。まったく「はる(遥)」だ、それに疑問を感じない、ということ。

この「~けし」がさまざまな語により表現される。同じ「けし」による語として「のどけし(長閑けし)」、「さやけし(清けし)」、「しづけし(静けし)」、「あきらけし(明らけし)」、「つゆけし(露けし)」などがある。

「…月に向ひて霍公鳥(ほととぎす)鳴く音(おと)遥けし(はるけし:波流氣之)里遠みかも」(万3988)。

「久(ひさ)かたの光(ひかり)のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」(『古今集』)。