◎「さまたげ(妨げ)」(動詞)

「さまあたかけ(様仇掛け)」。「さま(様)」はその項(7月29日)。ここでは、単なる外観ではなく、意味や価値の評価も含む。「あた(仇)」は自分に危害を生じさせる危険のあるなにものかやなにごとか。「さまあた(様仇)」は、「さま(様)」の「あた(仇)」ですが、あることのその「さま(様)」に、その意味や価値の評価に、仇(あた)になるものやこと。それが、「それは…」と思っているそのあり方を損(そこな)なったり台無しにしたりし、自分がしていること、しようと思っていること、の障碍になったり、それを台無しにしてしまったりする。。「かけ(掛け)」は、基本的な意味は交感を生じさせることですが、ここでは、関係させる、影響を生じさせる、かかわらせる、といった意味になる。「迷惑をかける」などの「かけ」。古くは「かき(掛き)」という四段活用の言い方をし、「さまあたかき(様仇掛き)→さまたぎ」という言い方もあったのかもしれませんが、明瞭には残っていません(『続日本紀』の宣命に「さまたくこと(佐末多久事)」という表現がある。下二段活用の場合は「さまたぐること」になる)。

つまり、「さまあたかけ(様仇掛け)→さまたげ」は、「迷惑」を掛(か)けるように、「さまあた(様仇)」を掛(か)ける、価値評価、意味評価としての仇(あた)にかかわらせる、することに障碍を生じさせ、それがうまく進まなくなったり、それが台無しになったりするものやことにかかわらせる、こと。その影響下におくこと。

「『………』などのみ、(紫の上の出家を)さまたげきこえたまふ」(『源氏物語』:出家をやめさせようとしている)。

「又むかしより、天帝(テンタイ:帝釈天)きたりて行者(ギャウジャ)の志気(シキ)を試験し、あるひは魔波旬(マハジュン:釈迦の修道を妨げようとした悪魔のようなものの名。サンスクリット語の音訳)きたりて行者の修道(シュダウ)をさまたぐることあり。これみな名利(ミャウリ)の志気はなれざるとき、この事ありき。大慈大悲(ダイジダイヒ)のふかく、広度衆生(クヮウドシュジャウ)の願の老大(※)なるには、これらの障礙(シャウゲ)あらざるなり」(『正法眼蔵(シャウホフゲンザウ)』谿声山色(ケイセイサンシキ):「老」は『説文』に「考也」とある)。

 

◎「さまねし」(形ク)

形容詞「まねし」(その項参照)の語頭に「さ」がついたものですが、この「さ」はク活用形容詞「さし(狭し)」の語幹になっている「さ」であり、障害感のあること、狭いこと、を表現する(「さくまねし(狭くまねし)」の「く」が脱落したような表現)。つまり「さまねし」は、狭くまねし、ということであり、「まねし」はものごととものごとの間(あひだ)の間(ま)が意外感をもって近接していること、つまり、ものごとが間を置かず起こること、ですが、「さまねし」は「まねし」で意外感を感じさせたその間(ま)がさらに狭い。つまり「さまねし」は「まねし」をさらに強意した表現です。この「さまね」を語幹とした「さまねみ」という動詞もある。形容詞「まねし」とその語幹を語幹とした動詞「まねみ」という動詞があることに事態は似ている。

「うらさぶる心さまねし(佐麻禰之)…」(万82:絶え間ないほどうらさぶる心になる)。

「心には忘れぬものをたまさかに(儻)見ぬ日さまねく月ぞ経にける」(万653:忘れてなどいないのに、会わないつもりはないのに(たまさかに)会わない日々が重なって…)。

「たまほこの道に出で立ち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも 一云 見ぬ日久しみ恋しけむかも」(万3995:見ぬ日が「さまねみ」、つまり、見ぬ日と見ぬ日の間(ま)が狭くなって、とは、毎日のように逢いたくなって、ということ。「見ぬ日久しみ」は、逢はない日が二三日でも長い日数逢っていない思いがし、ということでしょう。これは「さまねみ」の例)。

・「さまねみ」(動詞) 「さまね」は形容詞「さまねし」の語幹たるそれ。その動詞化。意味は、非常に頻繁であること→「さまねし」の項。