「さはみは(「さは見は)」。語頭の「さ」は何かを指し示す。次の「は」主格の助詞になっている、なにかを提示する「は」。「さは」は、それは、ということ。次の動詞「み(見)」は、単に光が視覚関係の神経に反応を引き起こすことを表現するわけではなく、その本質は意思動態が表現され、それは何なのか、それはどういうもの・どういうことなのかの思考が起こり、調べ、判断することも表現する(→「かむかへ(考へ)」の項:→「運勢を占い師にみてもらう」)。最後の「は」も主格の助詞になっている、なにかを提示する「は」。

全体は、「さは」と「みは」が言われ、 「さは:それはとあるそれは:「さ」と提示される内容」 と 「みは(見は):見るところとあるそれは:「見(み)」と提示される内容」 ということであり、どちらも「は」によって、「さは(それは)」と提示される内容、「みは(見は):見るそれは」と提示される内容、が表現される。つまり、Aの「さは・みは→さま」は、Aの「それは」と「見は」の双方、それが総合化された内容、ということです。たとえば「Aの さは は」と言った場合、それは、「Aの それは は」と言っているわけであり、Aの、「それは…」と表現されるなにごとかを意味する。それが「さは」と「見(み)は」に関し言われ、「「さは」と「みは」」であることが「さはみは→さま」。

「Aのさは・見は→Aのさま」とはそういう意味です。つまり、「Aのさま」は、Aの、「さは(それは)」・Aに関し「それ」と指示しつつ反省思考したその内容、と、Aの、「みは(見は)」・Aに関し見つつ反省思考したその内容、を意味する(すなわち、「Aのさまは」の原形は「Aの さはみは は」ということになる)。そして「見(み)」は視覚刺激を受けることだけを意味するわけではなく、知覚認知したものやことの意味を知ろうとする動態がそこには働く。すなわち、そうした、知り、判断する動態が「み(見)」によって表現される(もちろん、視覚印象、その記憶内容も意味する)。また、「さは(それは)」と表現される「さ」は物に関しても言われ、事(こと:事象・現象)に関しても言われる。

 

「この君(姫)の十ばかりにもなり給へるさまのゆゆしきまでをかしげ(心惹かれる様子)なるを見たてまつりて…」(『源氏物語』:姫の現状が「さ」)。

「時(とき)に八十萬神(やそよろづのかみたち)天安河邊(あまのやすのかはら)に會(つど)ひて其(そ)の禱(いの)るべき方(さま)を計(はから)ふ」(『日本書紀』:この「さま」は方法。どうしたらよいか、ということ)。

「たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ」(『源氏物語』:これは、方違(かたたが)へを理由としてたびたびその家へ行ったことの客観的状態だけを言ったわけではなく、その事情も言っている)。

「…父母を 見れば尊(たふと)く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし うつせみの 世のことわりと かく(このような)さま(佐末)に 言ひけるものを… 」(万4106:これも、人のありかた自体が「さ」)。

「此度はいかでかいなび申さむ。人さまもよき人におはす」(『竹取物語』この「さま」は評価。人間性に対する評価であろう。見た目や身なりではない)。「さまにならない」なども評価。

「さ」で表現される何かの特性が言われつつ「さま」が言われることもある。「とざま(外様)」。「雨が横さまに激しく降る」。「家ざまへ歩く」(家の方へ向かって歩く)。

「とさま、かうさま」(これは「とさま、かくさま」であり、「と」で思念的に確認されるさまと「かく」で現実的に認められるさま。あのさま、このさま、あちこち、や、あれやこれや、のような意。漢字では「東西」や「左右」などとも書く)。

また、動態表現とともに用い、「さ」がその動態変動であり、その瞬間、そのとき、を表現することもある。「振り向きざまに」。

また、人の特性を表現する語によりその特性のある指し示しの「さ」が言われ、これがその人を直接に表現しない、間接表現となり、この表現の間接性が尊敬や尊重を表現し、尊敬表現や、尊敬というほどでもないが尊重感のある丁寧な表現になる。「さ」に姓名や身分や特性などがつけられ表現される(こうした、「さま」の敬意表現的用い方は室町時代から)。「お殿様」。「若様」。「奥様」。「お母(かあ)さま」。「お客さま」。また、抽象名詞化した動態につけられ尊重感が表現されもする。「ご苦労様」、「お疲れ様」、「お互ひ様」。