「しはみふりはひ(為填み振り這ひ)」。

「し(為)」はなんらかの動態が自発的・意思的・故意にあることを表現する(「し(為)」の項)。たとえば「しごと(仕事)」。

「はみ(填み)」は「はめ(填め)」の自動表現(→「はべり(侍り)」の項参照)。「はめ(填め)」は部分域を形成させることであり、その自動表現「はみ(填み)」は何かの部分域になることを意味する。なにものかやなにごとかの部分になれば、そのなにものかやなにごとかが全体となり、そうなった者はその全体たるなにものかやなにごとかに仕(つか)えているような状態になる。

「ふり(振り)」は、「役をふる(与える・分ける)」などという場合のそれであり、「はみふり(填み振り)」は、何かの部分域になることを役割りとして分ける・与える、といった意味になる。

「~はひ(這ひ)」は動態に一般的にそうした情況感が生じること。

すなわち、「しはみふりはひ(為填み振り這ひ→さぶらひ」は、意思的に何かの部分になる情況になること。人に仕(つか)へる情況になること、を意味する。「いづれの御時にか、女御(ニョウゴ)更衣(カウイ)あまたさぶらひ給ひける中に…」(『源氏物語』:「女御(ニョウゴ)」も「更衣(カウイ)」も基本的には宮中で働く女性なのですが、どちらも天皇の私的な生活領域のことに関わり、立場としては更衣は女御に次ぐ。「衣(ころも)」を「更(か)へる」という名称は天皇の着替えを手伝ったりしたことに由来する)。

この「さぶらひ」という語はそれ自体が「有る」や「居る」の謙譲表現にもなる(「AがBにさぶらひ」は、AがBの部分域になっている、ということであり、これが、(Aが)有る、という表現になるということ)。「上の御前に『いなかへじ』といふ御笛のさぶらふなり、御前にさぶらふものは御琴も御笛も、みなめづらしき名の…」(『枕草子』:これは笛が仕えているような表現になり、笛が仕えているということは、それを持っている人への尊敬表現になる)。また、動態につき謙譲表現にもなる。「申しさぶらひ」(申し仕える、のような表現になり、謙譲表現になる)。この謙譲表現性を帯びた「さぶらひ」は、後に、「さむらひ」→「さうらひ」→「そうろふ」と変化し、室町時代ころの女の多少かしこまった手紙に繰り返し繰り返し「候(さふらひ・そうろう)」が用いられたり、日常的な言語表現にも現れ、単に「そろ」になったりもする。

この「さぶらひ(候ひ)」は「さもらひ(侍ひ)」ではない。「さもらひ(侍ひ)」も「さぶらひ」や「さむらひ」になるのですが、別語です。この「さぶらひ(候ひ)」の原意は「さもらひ(侍ひ)」を意味するわけではない。しかし、実態たる「さもらひ(侍ひ)」が「さぶらひ(候ひ)」と言われ「さぶらひ(侍ひ)」が育ち意味に混乱が起こる。本来の「さぶらひ(候ひ)」と「さもらひ(侍ひ)」たる「さぶらひ(侍ひ)」が生まれる。つまり、実態たる「さもらひ(侍ひ)」(何かを警護したり護衛したりすること)が「さぶらひ」(仕えること)と言われるのです→「さもらひ(侍ひ)」の項参照。