◎「さぶし(寂し)」(形シク)

「さびゆゆし(寂び由々し)」。ひどく「さび(寂び)」の状態になっていること。「さび(寂び)」が深刻な状態になっている(意味に関しては「さびし(寂し)」の項・7月23日)。「さび(荒び・寂び・錆び)」はその項(7月22日)。後世、この語の母音変化のような「さむし(寂し)」も現れている。

「…白(しら)つつじ見れどもさぶし亡(な)き人思へば」(万434:この歌には、姫島の松原に美人の屍を見て哀働(かなし)びてつくる歌、という前書きがある)。

「日月(つきひ)累(かさ)なり往(い)くまにまに、悲事(かなしきこと)のみし弥(いよいよ)起(お)こるべきかも、歳時(としとき)積(つも)り往(い)くまにまに、さぶしき(佐夫之岐)事(こと)のみし弥(いよいよ)益(まさ)るべきかも」(『続日本紀』宣命:「かも」の「も」は詠嘆) 。

「言ひつつも後こそ知らめとのしくもさぶしけめやも(佐夫志計米夜母)君いまさずして」(万878:「言ひつつも」は、そうは言っても、のような表現ですが、これは、大伴旅人が都へ帰還することになり、その送別のための宴席での歌であり、その宴席でのやりとりが背景にある。「とのしくも(等乃斯久母)」は未詳とされる部分ですが、「とのしいくも(殿し行くも)」ということでしょう。殿(との)は(大伴旅人の)邸宅。「し」は、「手児奈しおもほゆ」(万433) その他にある、運命必然的になんらかの動態や形容が有ることを表現するそれ→「し(助)」の項。旅人が都へ帰った後も、なつかしくそこへ行ってしまうだろうが、さびしいことだろう、あなたはおらず、ということ)。

 

◎「さば」

「しあはば(為合はば)」。「しあは」が「さ」になっている。ただし、「しあは」が明瞭に「さ」になっているわけではなく、極めて省略的に言われながら「さ」と書かれているだけ、という可能性もある。「しあはば(為合はば)→さば」は、為(し)が合(あ)うならば、ということであり、この表現が、あなたの気持ちはどうなのかはっきりわかりませんが、あなたの為(し)に合うならば、もしそれでよかったら、そうしていただけませんか? よろしかったらそうしていただけませんか? という表現になったり、あるいは、あまり気はすすまないが、あなたの為(し)に合うなら、あなたがそうしたいなら、そうしましょう、といった意味になったりする。この語は文法的には「接続詞」と言われている。

「この女、『いづちぞ』(どちらへ)と言ひければ、男、『志賀へなん詣づる』と言ひければ、やがて、『さは、もろともに。ここにもさなむ(こちらもそうです)』とて、行きける」(『平中物語』)。

「何の憚かりかあらん。ただ取り出だせと仰せられければ、さばとて立ち出でて、取り出だされけるに…」(『今鏡』:播磨の守・師信が『何の憚かりかあらん。ただ取り出だせ』と言い、修理のかみが、『さば』とて立ち出でて、取り出だされた、ということでしょう)。

「侍従の君呼び出でて、『さは、まゐりたまへ』と言へば…」(『源氏物語』:これは右近が侍従に代理を依頼するような場面ですが、よかったら(行けるなら)いってくれ、のような言い方)。

「『これに何を書かまし。上の御前には、史記といふ書をなむ書かせ給へる』などのたまはせしを、『枕にこそははべらめ(枕になるでしょう)』と申ししかば、『さは、得てよ』とて給はせたりしを…」(『枕草子』:この「さは、得てよ」は、よかったらもっていって(あげるわよ)、のような言い方)。

「この猿六七ひき連れて、様々の物の葉を葉盤(くぼて)にさして、……薯蕷(いも)、野老(ところ)などを入れて持て来るを見給ふに、いとあはれに、『さば、これに養はれてあるなりけり』と、めづらかにおぼさる」(『宇津保物語』:この「さば」は、「食ふ」という「為(し)」に合うならば、食べられるものだから、食べられるというただそれだけの理由で、それを食べて生きてきた、ということ。「めづらし」は心情が湧き上がり感嘆する状態になっていることを表現する。それが、稀(まれ)であることを表現するわけであるが、経験が稀であることを表現することが本質ではない)。

「わするるかいささは我も忘れなん人にしたかふ心とならは」(『拾遺和歌集』993:これは、少し、の意味の「いささ」と「いざ、さば」(いざ、そういうことなら)がかかっているということか)。

「この翁孔子の弟子どもを招くに一人の弟子招かりて寄りぬ 翁曰く『この琴ひき給ふは誰ぞ もし国の王か』と云ふ 『然もあらず』と云ふ 『さは国の大臣か』 『それにもあらず』 『さは国の司か』 『それにもあらず』 『さは何ぞ』と問ふに…」(『宇治拾遺物語』:この「さは」は「然(さ)は:それは」でしょう。上記「さば」の例として例文にしている辞書もある。古い書き物は濁音か清音かよくわからないものは非常に多い。そのどちらなのかは、そこに書かれていることの周辺の事情から判断するしかない)。