◎「さびし(寂し)」(形シク)
「さびひし(寂びひし)」。「さび」は動詞「さび(荒び・寂び・錆び)」(その項・7月22日)のそれであり、「ひし」は密着感・圧縮感を表現する擬態。「さびひし(寂びひし→さびし)」は、その「さび(寂び)」が胸に「ひし」と迫る思いを与えているということです。空虚(むなしさ)、喪失(あった、あるいは、あるはずの、何かが失われ、ない)、寂寥(セキレウ・セキリョウ:心情の色彩感は褪せていき、さらには悲しさへ向かう)といったことを表現する。「ひし」がそのまま形容詞化し、「ひしき」のように、「ひし」を語幹とするク活用形容詞ということなのですが、語幹語尾が「し」なので文法的にシク活用と評価されることになった。この語は「さみし(寂し)」とは別語であり、それに関してはその項。
「『いつぞやも花の盛りに一目見し木のもとさへや秋は寂しき』」(『源氏物語』)。
「(源氏が)殿におはしたれば(邸宅に行くと)、………侍には、……人もなし。さらぬ人は、とぶらひ参るも重き咎(とが)めあり、わづらはしきことまされば、所狭(せ)く集(つど)ひし馬、車の方もなく、寂しきに、『世は憂きものなりけり』と、思し知らる」(『源氏物語』)。
「(宮は)限りもなく人にのみかしづかれてならはせたまへれば、世の中うちあはずさびしきこと、いかなるものとも知りたまはぬ、ことわりなり」(『源氏物語』:「世の中うちあはずさびし」とはどういうことであろうか。ものごとが思いどおりにはならず、すべてあきらめなければならないことを悟り寂寥感を覚えるということか)。
「閑 サビシ シヅカ」(『雑字類書』(室町中期))。「闃 サビシシ …寂静也…静而無人也」(『合類大節用集』(享保二(1717)年):「サビシ」はあるが「サミシ」はない)。
◎「さぶし(寂し)」(形シク)
「さびゆゆし(寂び由々し)」。ひどく「さび(寂び)」の状態になっていること。「さび(寂び)」が深刻な状態になっている(意味に関しては「さびし(寂し)」の項(上記))。「さび(荒び・寂び・錆び)」はその項。
「…白(しら)つつじ見れどもさぶし亡(な)き人思へば」(万434:この歌には、姫島の松原に美人の屍を見て哀働(かなし)びてつくる歌、という前書きがある)。
「日月(つきひ)累(かさ)なり往(い)くまにまに、悲事(かなしきこと)のみし弥(いよいよ)起(お)こるべきかも、歳時(としとき)積(つも)り往(い)くまにまに、さぶしき(佐夫之岐)事(こと)のみし弥(いよいよ)益(まさ)るべきかも」(『続日本紀』宣命) 。
「言ひつつも後こそ知らめとのしくもさぶしけめやも(佐夫志計米夜母)君いまさずして」(万878:「言ひつつも」は、そうは言っても、のような表現ですが、これは、大伴旅人が都へ帰還することになり、その送別のための宴席での歌であり、その宴席でのやりとりが背景にある。「とのしくも(等乃斯久母)」は未詳とされる部分ですが、「とのしいくも(殿し行くも)」ということでしょう。殿(との)は(大伴旅人の)邸宅。「し」は、「手児奈しおもほゆ」(万433) その他にある、運命必然的になんらかの動態や形容が有ることを表現するそれ→「し(助)」の項。旅人が都へ帰った後も、なつかしくそこへ行ってしまうだろうが、さびしいことだろう、あなたはおらず、ということ)。
◎「さびれ(寂れ)」(動詞)
「さびいれ(寂び入れ)」。「さび(寂び)」はその項参照。「さびいれ(寂び入れ)」は、「さび」の状態に入るのではなく、それを入れている(→そうなっている)という表現。
「其頃より開帳もさびれて…」(『賤(しづ)のをだ巻』19世紀最初期)。