◎「さび(荒び・寂び・錆び)」(動詞)

「あせはび(褪せ葉び)」。語頭の「あ」は無音化した。「あせ(褪せ)」は空虚感を感じるような状態になること。「は(葉)」は木の葉。活用語尾になっている「び」は「都び」「荒び」などにあるそれに同じ。褪(あ)せた、空虚を感じる、葉を見ているような、状態であることを表現する。どういうことかと言うと、春に萌え、夏に盛り、そして秋を感じるころ、活性力に空虚が感じられ、むなしさ、寂寥感をふと覚える、そんな葉のような、そんな葉を見ているような、状態になること。それが「あせはび(褪せ葉び)→さび」。それは枯れ落ちた枯葉ではない。しかし、枯れを予感させる。しかしそれは死んではいない。樹木は生きている。それはさらに豊かに生きるためのものなのです。また、時の経過により枯れていくこの語は、金属の、とりわけ鉄の、酸化、それにより、鏡のようだった表面も茶色くザラザラしたものになるそれ、そうなること、も表現する。

この「さび」は平安時代末期ごろから歌の情趣を評価する重要な語となり、江戸時代の芭蕉風俳句ではとりわけそうなる。

後世では、(ある曲の)「サビのぶぶんを着メロにして」といった表現もなされますが、この「サビ」は、一般的な美声ではなく、悪声と言われるようなダミ声が混じるような声(美しい艶があるだけではなく歳月とそれによる現実感・生きた人間性を感じさせる錆(さ)び)のある声)が「さびがあっていい」と言われるような、たとえば浪曲のような、大衆芸能文化、とりわけ大衆音楽文化、を背景にし、特別な趣、情趣、という意味で「さび」が言われるのでしょう。

この動詞は上二段活用。否定形は「さばず」ではなく「さびず」。

「ささなみの国つ御(み)神のうらさびて荒れたる都(みやこ)見れば悲しも」(万33:この歌は「高市古人感傷近江舊(旧)堵作歌」という題詞がある。「堵(ト)」は居所の意。「うら」の原文は、浦。「ささなみの」は、琵琶湖周辺をそのささ波の印象で飾った慣用的修飾でしょう)。

「まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝(あした)夕(ゆふべ)にさびつつ居(を)らむ」(万572)。

「ちり(塵)つもる(積もる)こそのまくら(枕)もさひにけりこひ(恋)するひとのぬる(寝る)よ(夜)なけれは」(『伊勢大輔集』:「こぞ」は、昨夜、か?、昨年、か?。伊勢大輔(いせのタイフ)は女性)。

「御門守、寒げなるけはひ、うすすき(落ち着かない様子で)出で来て、とみにも(頓(トン)にも:すぐに、さっさとも)え開けやらず。これより他の男はたなきなるべし(この男以外に人はいない)。ごほごほと引きて、『錠のいといたく銹(さ)びにければ、開かず』と愁ふるを、あはれと聞こし召す(溜息が出るような思いで聞く)」(『源氏物語』)。

「ときおきし さやのかたなも さひにけり さしてひさしく ほとやへぬらむ:研ぎ置きし 鞘の刀も 錆びにけり さして久しく 程やへぬらむ」(『小大君(こおほぎみ)集』これは、女による、ある程度関係が疎遠になっている男への文のような歌ですが、「かたな」だの「さし」だの、さらには「ほと」、には性的なことも含意されているのでしょうか。この二つ前には同じ人による「岩橋の よるの契りも 絶えぬべし…」という歌がある)。

「岩に苔むしてさびたる所なりければ、住ままほしうぞおぼしめす」(『平家物語』)。

 

◎「さび」

「さ」は何かを指し示す。「び」は「都び(みやこび)」などという場合の「び」。何かの様子になること。「~さび」は「~」たるそれの様子になること。常に「~」たるなにかにつき、独立した動詞にはならない。「神(かむ)さび」「山さび」といった動詞表現がなされる。上二段活用。

「天地(あめつち)の分かれし時ゆ 神(かむ)さびて高く貴き 駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を…」(万317)。

「みこもかる信濃(しなの)の真弓(まゆみ)我が引かば宇真人(うまひと)さびていな(否)と言はむかも」(万96:「みこもかる」の原文は「水薦苅」であり、古くは「みすずかる」と読まれた(賀茂真淵がそう読んだ。それにより、そういう枕詞があると思われ、昭和のころにも「みすずかる信濃(しなの)…」という歌が現れたりする)。現在は「みこもかる」がほぼ一般的な読みになっている。常識的に読めば「みこもかる」でしょう。問題は、それがなぜ地名・信濃(しなの)の枕詞になるのかですが、「ひとり寝と茭(こも)朽ちめやも…」(万2538)や「薦枕(こもまくら)相枕(ま)きし子も…」(万1414)などのように、どうも薦(こも)は寝ることに関係が深い(「こも(薦)」という言葉自体は植物名)。また、「かりこもの」が「乱(みだ)れ」の枕詞になるように、薦(こも)を刈ることには乱れる印象がある。つまり、「御薦(みこも)苅る信濃(しなの)」は、乱れる品(しな:価値や品格)の、といった意味があるのでしょう(恋の思いやあまりの美しさに乱れてしまうわけです)。 「うまひと(うま人)」という表現の「うま」は、字が上手(うま)い、や、味が旨(うま)い、のそれではなく、「うましくにそあきづしま大和の国は」(万2))などの、シク活用のそれがク活用「うまし」の語幹による表現形式に影響されつつ言われている。意味は、美しさや崇高さに感嘆するような人。歌全体の歌意は、私があなたに声をかけたりしたら、その美しい崇高な様子で「いな(否)」と言うのだろうか(そう言われ、向こうへ行け、のような状態になってしまうのだろうか)。

 

◎「さひ()」

「さひ(さ日)」。「さ」は動感を表現する。全体的に表現されているのは反射光の動きであり輝きです。刀剣などを、それも鋭利感のあるそれを、意味する。しかし、直接には刀剣などを表現しているわけではなく、日にまぶしく反射する鏡のような鉄を意味している(純粋に鉄でなくともよいですが)。

「佐比の岡、佐比と名づくる所以は、出雲の大神、神尾山にましき………故(かれ)、出雲の国の人等、佐比を作りてこの岡に祭れども…」(『播磨国風土記』:出雲の神と言えばスサノヲノミコトであり、オホクニヌシノミコトですが、オホクニヌシノミコトは別名「八千矛(やちほこ)の神」とも言い、太刀や刀には縁は深い)。

「馬ならば日向の駒(こま) 太刀ならば呉(くれ)のまさひ」(『日本書紀』歌謡103)。

「生 サヒ 䥫ヽ」(『類聚名義抄』:「䥫」は「鐵(鉄)」の古字。「䥫ヽ」は「䥫生」と書いて「さひ」と読むということでしょう)。

「千釘鏒身 剗刀(サヒ)刮削」(『十住毘婆沙論』:「剗(セン)」は削(けづ)ること)。