◎「ささへ(支へ)」(動詞)
「さすさへ(指すさ経)」。「さす(指す)」は対象への目標感のある「さ」による、「南をめざして」などの、「さす(指す)」(→「さし(射し・差し…)」の項)。つぎの「さ」は何かを指ししめし(→「さ(指し示し)」の項)、活用語尾の「へ(経)」はそれらが経過している。たとえば、Aをささへ、は、Aを「指(さ)す」「さ」経(へ)→Aを、そうあるべき存在目標のように、指(さ)す動態になっているそれ(「さ」)を経過する、ということ。BがAをささへ、は、Bが、Aを目標としてAたろうとしているそれを経過する。柱をささへ、は、柱を柱たろうとしているそれを経過する。心をささへ、は、心を心たろうとしているそれを経過する。
「右手ヲ以テ自ラ頤(ヲトガヒ)ヲ搘(ササ)へ」(『大慈恩寺三蔵法師伝』)。
「凡(およそ)人ノ身ニ三百六十ノ骨アリ。足ノ指ヨリシテ頭(かうべ)ノ骨迄(まで)一一ニ相サヽエタリ」(『孝養集』)。
「二百騎ばかりでささへたる河原坂」(『平家物語』:合戦中、二百騎ほどでその坂を自域として維持した)。
「心の支へ」。
◎「ささへ(障へ)」(動詞)
「さしさへ(差し障へ)」。「さし(差し)」は異物感・異事象感を生じさせることが動的に表現されており(→「さし(射し・差し…)」の項:この「さし(差し)」は「さしとめ(差し止め)」の「さし(差し)」に似ている)、「さへ(障へ・触へ)」は、違和感・異物感・障害感・阻害感を生じさせること。すなわち「さしさへ(差し障へ)→ささへ(障へ)」は動的・積極的に違和感・異物感・障害感・阻害感を生じさせること。物的にも言いますが、社会的にも言い、社会的な禁止や妨害がなされたり、評価に障碍を生じさせる→悪口を言う、中傷・讒言する、といった意味にもなる。
「あしひきの山路は行かむ風吹けば波のささふる海路は行かじ」(万3338)。
「去年は木の芽峠の大雪にさヽえられ、當年迄おそなはつて(遅くなって)は御ざれども、上(うへ)とうは毎(いつ)もお正月じやと申に依て、(元旦ではないが)持て登ても苦敷(くるし)う在るまいと存(ゾンじ)、唯今持てのぼる所で御ざる」(「狂言」『もちさけ(餅酒)』:「上(うへ)とう:上頭」は京都にいる荘園領主。「おそなはり」は下記)。
「五つ以後のかよひ、かなふべからずとの御おきてなり。通すまじきとぞささゑける」(『曽我物語』)。
「河津を己れが討ちければ二人の伜(せがれ)をおそろしがり。君へさヽへて殺さん爲な」(「浄瑠璃」『根元(コンゲン)曽我』:これは中傷・讒言するということ)。
「不芍訾(イヤシクモソシラス)トハ人ノコトヲムサトハソシラヌ事ゾ。ソシレバサヽエニナルゾ」(『春鑑抄』:「芍」は「苟」でしょう(少し前ではそう書かれている))。
◎「おそなはり」(動詞)
「おそなはり(鈍名張り)」。「おそ(鈍)」は、「おそ(遅)」でもありますが、動態が不活性であり、効果的ではなかったり、反応が、時間的や内容的に、期待よりも時間がかかったり内容的に効果のないものであったりすること、そういうもの・人、を言う。「おそなはり(鈍名張り)」、すなわち、鈍(おそ)の名を張る、とは、「おそ(鈍)」と言われ、その名が世に広まる、すなわち、「おそ(鈍)」の状態になる、ということ。
「あした(朝)にみてゆふ(夕)べのおそなはるほどだに紅のなみだを落すに…」(『宇津保物語』:「ゆふ(夕)べのおそなはるほど」とは、「おそなはる」状態になっているのは俊蔭(としかげ)の父母であり、唐土(もろこし)に派遣されることになった俊蔭を思い・悲しみ・途方に暮れた状態になっている父母が、「ゆふ(夕)べ」の時間的不安定さとともに、そう表現された)。
(これは上記にもある例)「去年は木の芽峠の大雪にさヽえられ、當年迄おそなはつて(遅くなって)は御ざれども、上(うへ)とうは毎(いつ)もお正月じやと申に依て、(元旦ではないが)持て登ても苦敷(くるし)う在るまいと存(ゾンじ)、唯今持てのぼる所で御ざる」(「狂言」『もちさけ(餅酒)』:「上(うへ)とう:上頭」は京都にいる荘園領主。正月一日の朝に御祝の酒をもっていくのが毎年の例なのだが今年は遅れてしまった(あるいは、時期を逸してしまった)、ということ)。
「Vosonauari(オソナワリ), ru, atta. Tardar,o detenerse mucho(遅れるまたは多くが滞(とどこお)る)」(『日葡辞書』)。