「さきふりいや(咲き降り彌)」。「きふ」が「く」になり「りいや」が「ら」になっている。「ふり(降り)」は、花が散ることを天から降るようなこととしてそう表現した。「いや(彌)」は、動態や情況の進行、その進行のレベルや規模、への驚嘆表現。これは樹木名ですが、「さきふりいや(咲き降り彌)→さくら」は、その花の「咲(さ)き」も「降(ふ)り」も「いや(彌)」だ、その進行のレベルや規模、が驚嘆・感嘆するもの、の意。この樹木は、その花が、咲くことだけではなく、散ることも(一斉に散るその散り方の見事さ)も印象深く、そうした樹木としての生態特性により名となった。神名「このはなのさくやびめ」にある「このはな(木の花:こほのはな(木穂の花)」は桜(さくら)でしょう(この神名にある「さくや」は「さきうや(咲き敬)」。上記のようなその「咲き」が人々に「うや(敬)」の思いを抱かせるということ)。

 

「花ぐはし桜(さくら:佐區羅)の愛(め)でこと愛でば早くは愛でず我が愛づる子ら」(『日本書紀』歌謡67:桜に思いが萌え出(い)でる。こんなに愛でる思いが沸くならいっそのこと先走って愛でるのではなかった(もう愛でる思いを表現することもできない)。

「山峡(やまかひ)に咲ける桜(さくら:佐久良)をただひと目君に見せてば(見せたら)…」(万3967)。

「桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ」(万1855:花が散っている様子がそれを見る人の恋ふる思ひの盛りをあらわしているという)。

「…慰むる こともあらむと 里人の 我れに告ぐらく 山びには 桜花散り(佐久良婆奈知利) 貌鳥(かほどり)の 間なくしば鳴く…」(万3973:この歌は大伴宿禰池主が大伴家持の思いをなぐさめ励ましたものですが、「桜花咲き」ではなく、「桜花散り」と言っている。ただし、そうした「散り」の見事さ美しさも、時代がくだるにつれ、仏教の無常観の影響も受けもするでしょう)。

「世中にたえてさくらのなかりせは春の心はのとけからまし」(『古今集』:なぜ桜がなければのどかなのかと言えば、咲かなければ散らないから。「久(ひさ)かたのひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」(『古今集』:この歌の場合は散る花に不安げに心がもえている))。

「さくら花ちりかひくもれおいらくのこむといふなる道まかふかに」(『古今集』:これは在原業平の歌)。