◎「さくくしろ(枕詞)」

「さきゆくうしろ(先行く後ろ・咲き行く後ろ)」。これは「いすずのみや(五十鈴の宮)」にかかる枕詞であり、「いすずのみや(五十鈴の宮)」は言うまでもなく伊勢神宮のこと。これは伊勢神宮・内宮にある五十鈴(いすず)川の印象による枕詞であり、参拝者はその内宮へ向かう際、五十鈴川に沿い川上方向へ進む。「さきゆくうしろ(先行く後ろ)」の「さき(先)」は、「さきつよ(先つ世)」という言葉があるように、過去・昔を意味し、川の流れていく先(さき)・下流でもある。「さき(先)・過去」が後ろへ行くとは、内宮へ(上流へ)向かう自分は未知の未来へ向かっていることになる。「先行く後ろ」は「咲き行く後ろ」でもあり、未知の未来へ向かっている自分の過去(進んでいる自分の後ろ)は咲き行く状態となり、「さき(咲き)」は「幸(さき)」でもある。つまり、伊勢へ向かうことは未来へ向かっているのだが、それにより、進めば進むほど過去は咲きとなり、幸(さき)となり、幸福なものとなるということ。

これは五十鈴川の印象による「いすずのみや(五十鈴の宮:伊勢神宮)」の枕詞であり、川の印象によるものであることから「いすずのかは(五十鈴の川)」にかかりもするが、「さくくしろ」から「いすず」という語が導き出されるという類型の枕詞ではない。

印象の似た語に「さこくしろ」がある。これは「さきほくうしろ(先祝く後ろ)」。これは自分の後ろが自分の行く先を言祝(ことほ)ぐ状態になるということでしょう。これは「五十鈴の宮」にかかるだけではなく、「さこくしろ宇治の家田の田上宮」といった表現もある。

この「さくくしろ」の語源としては、「さく」は、枕詞のような「さくすず」(下記)を「拆鈴(さくすず:裂けた状態の鈴):『日本書紀』にこうした表記がある」と解し、「くしろ」は、古代の腕輪のような「釧(くしろ)」と解し、「さくくしろ」は鈴のついた釧(くしろ)を意味し、だから「いすずのみや(五十鈴の宮:伊勢神宮)」や「いすずのかは(五十鈴の川)」にかかるという。しかし、「さく」という語で鈴を表現することにも無理があり、また、たしかに鈴のついた釧(くしろ)はあるのですが、一般的というわけでもなく、鈴のついた鏡や馬具もある。なぜ鈴のついた釧(くしろ)が「いすずのみや(五十鈴の宮:伊勢神宮)」にかかるのかは不明。

「此の二柱(ふたはしら)の神は佐久久斯侶(さくくしろ)伊須受能宮(いすずのみや)に拝(いつ)き祭(まつ)る」(『古事記』:「此の二柱(ふたはしら)の神」とは、「此(こ)の鏡(かがみ)は専(もは)ら我(わ)が御魂(みたま)として、吾(わ)が前(まへ)拝(みゆ)る如(ごと)いつき(伊都岐)奉(たてまつ)れ」(『古事記』:「拝」は「いつく(斎く)」と読むのが一般のようです。しかし、前をいつく、や、前にいつく、という表現に違和感を覚える)、と言われる鏡、と、思金神(おもひかねのみこと))。

「さくくしろいすずの川にいぐし立て夏祓ひすと人つどふかも」(『天降言(あもりごと)』:これは江戸時代中期の歌集であり、語の用い方も擬古的なものでしょう)。

 

◎「さくすず(枕詞)」

「さきゆすすず(咲き・先揺す鈴)」。これが「いすず(五十鈴)」にかかる。「いすずがは(五十鈴川)」の「いすず」を「いしすず(石鈴)」と解したことによるもの。せせらぎが鈴の音ということ。その五十鈴川には、祈りや声を届ける神を呼ぶ鈴の音が、誰かが揺らしているかのように、自分が行こうとしている先に(前方に)、そして社につくよりも先に、あるということ。ただし、これが「枕詞」と言いうるほど安定した一般的な表現であるか否かは不安定。

「拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)」(『日本書紀』神功皇后摂政前紀:「拆(セキ)」は『集韻』などで「裂也,開也」などとされる字。口が裂け開いたようになっている鈴ということ)。