「けふるよ(気、ふる世)」。「ふる」は「振る」ですが、何かを感づかせること。「役をふる(配役する)」といった用い方の「ふり」がそれに近い。「よ(世)」は、経験経過を表現し(→「よ(世)」の項)、過去であれ、今であれ、未来であれ、ある時点や時域の世界です。その世界が(その「よ(世)」が)「け(気)」を「ふる」(感づかせる)。それが「「けふるよ(気、ふる世)→ころ」。どんな「け(気)」を「ふる」かはそのつど表現されますが、具体的個別的なその個人のそれであれ、人一般、世界や社会一般、自然現象一般のそれであれ、表現される。たとえば、「以前、私が東京に住んでいた気(け)ふる世(よ)は…(以前、私が東京に住んでいたその気(け)を感じさせるその時間域世界は…)→以前、私が東京に住んでいたころは…」。ほとんどが、「~」に動態が言われ「~ころ」(もう来るころ)と言われたり、「~」に名詞が言われ「~のころ」(子供のころ)と言われますが、上記の「東京に住んでいた」はその人の具体的個別的事象による「気(け)」であり、「秋風吹くころ」の場合は「秋風吹く」という自然現象一般による「気(け)」。「子供のころ」などは、その人の具体的な個別的時代を言っている場合もあれば、子供である人一般の時代を言っている場合もある。「としのころは二十二三」は、年の経過によって一般的に経験される「気(け)」。
「春日野の山辺の道をよそりなく通ひし君が見えぬころかも」(万518:これは、見えぬ「気(け)」が特に言われ特定強調され感嘆表現になる)。
「いへはえにいはねはむねのさはかれて心一つになけく比哉(ころかな)」(『伊勢物語』:言へばえに言はねば胸の騒がれて心ひとつに歎(なげ)くころかな(下記※))。
「まだころの御徳なきやうなれど おのづからやむごとなき人の御けはひのありげなるやう 直人(ただひと:普通の人)の限りなき富といふめる勢ひにはまさりたまへり」(『源氏物語』:これは「Aころ」や「Aのころ」の「A」にあたる部分がなにも言われていないわけですが、これは叙述全体からその人(この場合は左近少将)なら当然ある「気(け)」)。
※ この「いへばえに」という表現は他にもあるものですが、これは「いへばえぬに(言へば得ぬに)」ということでしょう(つまり「ぬ」と「に」が一音化し「に」になっているということ)。「言へば」は逆接であり、言ったのに、ということ、「得(え)ぬ」は、できない、ということ。全体の意味は、言ったのに、言えない→どうしても言えない、ということ。この「えに」は一般に、動詞「え(得)」と否定の助動詞「ぬ」の連用形「に」、と文法的な説明がなされている。