◎「こまり(困り)」(動詞)

「こみよわり(込み弱り)」。「こみ~」は動詞「こみ(込み・混み)」ですが、動態に凝縮感が生じることを表現する。凝縮感が生じるとは動態強度、その効果が強まることです(→「思ひこみ」「笑いがこみあげ」)。「よわり(弱り)」は「よわし(弱し)」の語幹の動詞化であり体力や生命力の衰弱することを表現しますが、対処の無力さ、脆弱さを自覚し「弱(よわ)った」と表現されたりもし、これだけでも「こまった(困った)」と同じような意味になる。「こみよわり(込み弱り)→こまり」は、その「よわり(弱り)」が凝縮感をもって、動態強度が増した、状態であることを表現する。つまり、弱ることの効果が強まり特別的強化的に無力化している。

「おめへの病気もこまったもんだぜ」(「滑稽本」:病気への対処に無力化している)。

「そういうことをされてはこまります」(そういうことをすると、対処に困難を生じ、対処効果の脆弱さが生じます)。

「金(かね)にこまる」(金(かね)の作用力に関しひどく無力化している)。

 

◎「ごまんと」

「ゴウマンと(豪満と(※下記))」。「豪」は強く秀でている意。何かが力強く秀でている印象で満ちていること(多数・多量にあること)。

「こんな日本の若者たちが、いまヨーロッパ中にごまんと散らばっている」(『風に吹かれて』五木寛之)。

「まんと」という表現もある。「イヤもふまんと手のあるしろものさ」(『続膝栗毛 二編上』)。この「まんと」は、万(マン)と、とも言われる。それでもさほど意味は変わらず、そのような意味で言っていた人もいたのかもしれませんが、これは、満(マン)と、でしょう。万(マン)と、は、多数と、の意。満(マン)と、は、満ち足りて十分に、の意。「ごまんと」に関しても、五万(ゴマン)と、や、巨万(キョマン)の富(とみ)、などの、巨万(キョマン)と、とする説もある。

※ 「豪」の音は呉音・ゴウ、漢音・カウ。