「こてをかざす(小手を翳す)」や「こてがきく(小手が利く)」「こくびをかしげる(小首を傾げる)」といった表現がありますが、こられの「こ(小)」は動態が大がかりではない、ちいさな、ちょっとした努力でなされるものであることを表現したものでしょう。「こまたすくひ」(相撲の技の一)のそれも軽いちょっとした努力の印象で「また」をすくうこと。

ここで問題とされるのは「こまたのきれあがった」(きりあがった、とも言う)という表現。この、「こまたがきれ(り)あがる」とは、「股(コ):意味は「もも(股)」」の字から「又(また)」(「胯(また):股間」でもある)が切り上がる(切れ上がる:そこを離れ上部のどこかへ行ってしまう)、ということでしょう。「股(コ)」の字から「又」がどこかへ行ってしまいなくなれば「月」と「几」だけになる。すなわち「肌」に、なる。つまり、「こまたのきれあがったいい女」とは、肌(はだ)の出来上がった女、ということであり、男性経験など為果て(※下記)男の扱いのうまい粋な女ということでしょう。この語が「また(俣)」が鋭く切れ上がったようにスタイルのいい女という俗な印象にもなりこの表現をそのように用いる例が江戸時代にある。

※ 「またがきれあがる」という表現にはそうした俗な意味もあり得る(南方熊楠(みなかたくまくす)の随筆に性交渉を「種臼(たねうす)切(き)る」と表現したことの報告がある)。また「小股のきり上った」という表現に関し、永井荷風は、1920年代頃、『麻布襍記(あざぶざっき)』において「町の女藝妓なぞいづれも既に男の肌よく知りたりと見ゆる女のさして取りつくろはぬ姿につきて言ふものと知るべし」(『麻布襍記』「隠居のこごと」)と言っている。

「其容(かたち)首筋少ぬき出、胴短く裾長に、腰細く小脵(こまた)切れ上り…」(「洒落本」)。

「どふかこふ小またの切りあがった水気たっぷりという銘婦人を…」(「歌舞伎」)。