「こおふをり(凝覆ふ居り)」。全体が一つの固まり(「こ(凝)」)として覆(おほ)われた印象で存在していること。「ひとまとめ(一纏)」のような表現です。そのような印象で存在している対象。これは昔の行政域名です。「郡」と書きますが、さらに古くは「評」と書いた(「郡」は、くに、むら、こほり、といった読み方をしている)。これは半島管理で用いられ始めた語かもしれない(その方面での使用が目立つ:語尾の「「をり(居り)」という表現は、自己謙遜的表現にもなりますが、他者に用いた場合はあまり尊重感がない。尊重感がないというよりも、親しみ感が乏しくなると言った方が正確か。この表現を自己に関し用いた場合、(表現は客観的になり)相手に対しなれなれしくならず、相手への遠慮となり、自己謙遜的表現となる。他者に関し用いた場合、ただ親しみ感が乏しくなり相手への対応が粗雑な印象になる」(「をり(居り)」の項より))。

「魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫・難斗等(この人名の読みは、他の表記もあり、定まっていない)を遣(つかは)して郡(こほり)に詣(いた)りて…」(『日本書紀』神功皇后三十九年:この「こほり」は半島の帯方郡)。

「紀角宿禰(きのつのすくね)を百済に遣(つかは)して始めて国郡(くにこほり)の壃(さかひ)を分かちて…」(『日本書紀』仁徳天皇四十一年三月)。

「新羅…………飽(あ)きては飛(さ)り、飢(う)ゑては附く…………小弓宿禰(をゆみのすくね)等、即(すなは)ち新羅に入りて行(ゆくゆく)傍(かたはら)の郡(こほり)を屠(ほふりと)る」(『日本書紀』雄略天皇九年三月)。

「飛鳥戸(あすかべの)郡(こほり)の人……古市(ふるいちの)郡(こほり)の人……」(『日本書紀』雄略天皇九年七月)。

「毛野臣(けなのおみ)、百濟(くだら)の兵(いくさ)來(きた)ると聞(き)きて、背評(へこほり)に迎(むか)へ討(う)つ 背評は地(ところ)の名(な)なり 亦(また)の名(な)は能備己富里(のびこほり)」(『日本書紀』継体天皇二十四年九月:これは「評」と書いて、こほり、と読む記録の最初でしょう。それ以前にも「國郡」と書いて、くにこほり、と読んだりする例(成務天皇四年)はありますが、「こほり」という語がいつからあるかはよくわかりません)。

「凡(およ)そ郡(こほり)は四十里(よそさと)を以て大郡(おほきこほり)とせよ」(『日本書紀』大化二年正月)。

「郡 …クニ コホリ」「縣 アカタ コホリ」(『類聚名義抄』)。

「後に郡をコホリといひしは、韓国の言に出しなり。即今も朝鮮の俗、郡をも縣をも竝にコホルといふは即コホリの轉語なり」(『東雅』(1717年:新井白石):朝鮮の俗にそのような語があるとすれば、日本の古語が残っている可能性はある)。

 

◎「こほり(凍り)」(動詞)

「こひおり(凝氷織り)」の動詞化。「おり(織り)」は(事実上平面的に)大きくすることを意味しますが、これは「こほり(氷)」という名詞がまずあり、それが動詞化したものでしょう。「ひ(氷)」は氷(こほり)を意味する。織るように氷(ひ)が固まってできることが「こひおり(凝氷織り)」。

「佐保川に凍り(こほり:許保里)わたれる薄(うす)ら氷(ひ)の…」(万4478)。

「みずがこほる(水が氷る)」。