「ことば(言葉)」。「こと(言)」に関しては「こと(言・事)」の項。「は(葉)」は時間を意味する(→「はは(母)」の項)。濁音化は持続と、事象の複数化(一般化)によるもの。「ことば(言葉)」は、「けおと(気音)→こと(言・事)」が時間経験として表現された。すなわち、「こと(言・事)」の経験表現です。「こと(言・事)」の時間、とは、「こと(言・事)」たる時間経過であり、時間経過たる人の、人一般の、そして具体的な生(なま)のその人の、体験経過であり、その記憶です。
「ことのは」
「ことのは」という語もある。「ことば」は時間経験たる「こと(言・事)」であり、「ことのは」は、「こと(言・事)」たる時間経験です。つまり、「ことのは」は、「ことば」よりも、「こと(言・事)」の、具体的なその人や、人一般の、時間経験が強調し(それゆえ尊重が表現され)表現されている。
・「ことば」
「世の中の人のことば(辭)と思ほすなまことぞ恋ひし逢はぬ日を多み」(万2888)。
「百千(ももち)たび恋ふと言ふとも諸弟等之練りのことば(言羽)は我れは頼まじ」(万774:第三句「諸弟等之」は「もろてとの(諸手音の)」でしょう。「と(音)」はその一音で「おと(おと)」を表現した。『万葉集』に「弟」を、テ、や、デ、と読む例はほかにないと思われますが。あっても不自然ではないでしょう。「もろてと(諸手音)の」とは、拍手喝采の、であり、人をおだて喜ばせる拍手喝采の音でその本音が聞こえなくされている、ということ。これに関しては、「諸弟」を「もろと」と読み(「諸弟等」は、もろとら)人名とする説その他がある)。
「うつせみの常のことば(辭)とおもへども継(つ)ぎてし聞けば心惑ひぬ」(万2961)。
「父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)くあれて言ひし言葉(けとば:気等婆)ぜ忘れかねつる」(万4346:これは東国・防人の歌であり、「けとば(言葉)」は地方的変化)。
「…かくてぞ花をめで、とりをうらやみ、かすみをあはれび、つゆをかなしぶ心ことばおほく、さまざまになりにける」(『古今和歌集』「仮名序」:この「ことば」は、歌の歌詞、のような意)。
「「霜さゆる汀(みぎは)の千鳥うちわびて鳴くね悲しき朝ぼらけかな」。言葉のやうに聞こえたまふ」(『源氏物語』:「言葉のやうに」とは、歌ではなく、ということ)。
「『…出て行にはちりを結んで成共(なりとも)しるしを取物(とるもの)じやといふ程に。しるしをおくりやつた成らば出て行う』『夫こそ安い事成れ。どりやどりや、塵を結んでやらう。さあさあ、是をやる程に早う出て行け』『なう、腹立や腹立つや。夫(それ)は詞(ことば)でこそあれ。身に付(つい)た物をおこさしめ(よこせ)』」(「狂言」『ひつくくり』:「ちりを結んでも志(こころざし)」という言葉があり、ささやかなものでも、なにかをさしあげれば思いの実効的な現れになりますよ、ということ(「ちりを結んでも印(しるし」とも言う。「しるし(印)」は、実効的ななにか)。この狂言は本当に塵(ちり)を少し与えたということか)。
・「ことのは」
「やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」(『古今和歌集』「仮名序」:歌(うた)を「ことのは」と言っている)。
「まことかと聞きて見つれば言のはを飾れる玉の枝にぞありける」(『竹取物語』:これは言(こと)の「葉(は)」と枝(えだ)の「葉(は)」をかけた表現)。
「十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり。いみじう尊(たふと)し………今日の講師は、心ことに選(え)らせたまへれば、「薪(たきぎ)こる」ほどよりうちはじめ、おなじう、いふ言の葉も、いみじう尊(たふと)し」(『源氏物語』:「薪(たきぎ)こる」は謡うことになっている歌の一部。「法華経をわかえし(我が得し)事はたき木こりなつみ水くみつかへてそえし」(『拾遺和歌集』「哀傷」))。
「うつせみの八十(やそ)ことのへ(許登乃敝)は繁くとも争ひかねて吾(あ)をこと(こと:許登)なすな」(万3456:これは東国の歌であるが、「ことのへ」とある。これは「言(こと)の経(へ)」でしょう。言(こと)の経験経過。この「ことのへ」は、「ことのは」の上代東国方言、とも言われる)。