「ことをは(言緒端)」。「こと(言)」に関しては「こと(言・事)」の項(3月18日)。「を(緒)」は紐状の長いものを意味し、これが一連性を表現する。「は(端)」は部分域を意味し、「ことをは(言緒端)」は、「こと(言)」の一連たる部分。その一連には現象としての定形性はありません。また、「ことをは(こと緒端)」の「こと」が「事(こと)」である場合、「こと」は「言(こと)」でもあり、その(事(こと)の)一連の把握は、言語表現内容の一部と、その言語活動の一連の一部を意味し、双方(事(こと)と言(こと))は同時には「こと」として成立しない。「ことば(言葉)」において「事(こと)」たる「こと」と「言(こと)」たる「こと」が成立することはない。「ことば(言葉)」における「こと」は「言(こと)」です。双方が同時に成立し「こと(言)」と「こと(事)」が「ことなる(異なる)」場合、自我は分裂する。そうなっている場合、自我は分裂している。

漢字表現は現代では「言葉」が一般的ですが、歴史的には「詞、辞(辭)、言羽」などとも書く(最後の「言羽」は、相手の言葉が軽い実態のないものであることを表現した偶発的なものでしょう)。

「百千(ももち)たび恋ふと言ふとも諸弟等之練りのことば(言羽)は我れは頼まじ」(万774:第三句「諸弟等之」は「もろてとの(諸手音の)」でしょう。「と(音)」はその一音で「おと(おと)」を表現した。『万葉集』に「弟」を、テ、や、デ、と読む例はほかにないと思われますが。あっても不自然ではないのではないでしょうか。「もろてと(諸手音)の」とは、拍手喝采の、人をおだて喜ばせる拍手喝采の音でその本音が聞こえなくされている、ということ。これに関しては、「諸弟」を「もろと」と読み(「諸弟等」は、もろとら)人名とする説その他がある)。

「うつせみの常のことば(辭)とおもへども継(つ)ぎてし聞けば心惑ひぬ」(万2961)。

「父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)くあれて言ひし言葉(けとば:気等婆)ぜ忘れかねつる」(万4346:これは東国・防人の歌であり、「けとば(言葉)」は地方的変化)。

「『…出て行にはちりを結んで成共(なりとも)しるしを取物じやといふ程に。しるしをおくりやつた成らば出て行う』『夫こそ安い事成れ。どりやどりや、塵を結んでやらう。さあさあ、是をやる程に早う出て行け』『なう、腹立や腹立つや。夫(それ)は詞(ことば)でこそあれ。身に付(つい)た物をおこさしめ』」(「狂言」『ひつくくり』:「ちりを結んでも志(こころざし):ちりを結んでも印(しるし)、とも言う。「しるし(印)」は、実効的ななにか」という言葉があり、ささやかなものでも、なにかをさしあげれば思いの実効的な現れになりますよ、ということ。この狂言は本当に塵(ちり)を少し与えたということか)。