◎「こと(殊)」

「ことほ(凝と秀)」。「ほ」の脱落。「こ(凝)」は凝集感を表現する。「ほ(秀)」は感覚的秀(ひい)でです。「と」は助詞。たとえば「山と花」と言った場合、「山」「花」の列挙も表現されますが、花が山のように(多量に)あること、すなわち、山のように多量の花、も表現される。思念化して確認し状態を表現するわけです→「おとな(大人)」や「おと(音)」の項も参照。ここでの「と」はそうした表現。すなわち、「ことほ(凝と秀)→こと」は、一点に集中するような凝集感のある秀で(特化的に印象化されること・もの)、の意。この表現が特化感(特別化感)を表現する。

「先帝、ことなる御つつがもわたらせ給はぬに……」(『保元物語』:これといった病気や故障もないのに…。これは、異(こと)なる、ではない)。

「山里は秋こそことに侘(わび)しけれ…」(『古今集』:秋こそ特別に侘しい)」。

「ことなるかほかたちなき人は物まめやかに習ひたるぞよき」(『落窪物語』:容姿にこれといったこともない人は実直にものを習ったほうがよい)。

陳述に「ことに(殊に)」と入れることが多い。

 

◎「こと(同)」

「こと(異)」が一般的に言われた場合(→「こと(異)」の項)の、「ことA」の、そのAにあたる部分が動態・動詞になっている表現であり(それによりAが特別な、予想外のこととなり(→「こと(異)」の項))、「~ば」でそれ以下の叙述がその条件下におかれることが表現され、そういう情況であるなら(こと~であるなら)、情況が一変するような他の情況や自己の過去の他の行為を、と表現するものであり、この表現は「いっそ(いっそのこと…)」を用いた表現に似ている(この表現は「同じことなら」と言い変えられることが多い。漢字表記で「同」と書かれているのはそうした理由による)。この語は、独立した語というよりも、「こと(異)」の慣用的な用い方の一つということです(→「こと(異)」の項)。

「こと愛(め)でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら」(『日本書紀』歌謡67:こんなに愛でる思いが沸くならいっそのこと先走って愛でるのではなかった(もうそれ以上の愛でる思いを表現する方法がない))。

「こと降らば袖さへぬれてとほるべく降らなむ雪の空に消につつ」(万2317:降るならいっそのこと袖が濡れ通るほど降ればいいのに…)。

「こと離(さ)けば国に離(さ)けなむ」(万3346:(別れはいやだが。こんな旅で分かれる(死別する)なら)いっそのこと国で別れさせてくれれば…)。

「ことならは折りつくしてむ梅花我(わ)がまつ人のきても見なくに」(『御撰和歌集』:これは平安時代のものですが、この「ことならば」は、いっそのこと…、を表現する慣用的な表現になっている。この歌は、私が待つ人がきて見ることもないのだから、ということか?。この慣用的な表現は単に「ことは…」とも言われる→「ことは藤(ふぢ)散らで千歳(ちとせ)を過(すぐ)さなむ松(まつ)のときはにきつつみるへく」(『和泉式部集』:この歌は「まつ」に、松、と、待つ、がかかっているということでしょう)。

 

◎「こと(琴)」

「ことよ(こ響)」。「こ」は弦(ゲン:糸)を指で弾(はじ)く際の擬音。その「こ」により音が響くもの。「とよ(響)」はその項参照。楽器の一種の名。古代では、神意のような霊意のようなものを求める際にも用いていた。

「枯野(からの)を鹽(しほ)に焼き 其(し)が餘り琴(こと:許登)につくり、かき弾くや…」(『古事記』歌謡75:「枯野(からの)」は船の名。「鹽(しほ)に焼き」は、破(や)れ壊(こ)ぼれたその船体は塩焼きに使われた)。

「皇后(きさき:神功皇后)、吉日(よきひ)を選(えら)びて、齋宮(いはひのみや)に入(い)りて、親(みづか)ら神主(かむぬし)と爲(な)りたまふ。則(すなは)ち武內宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことのり)して琴(みこと)撫(ひ)かしむ」(『日本書紀』)。