「こと(言・事)」。たとえば「け」は「あ」に対し言・事(こと)になる。気(け)として対自的に存在化しうる。「け」は「あ」に対し「き(来)」は起こりうる。「あ」は「あ」に対し言・事(こと)にならない。気(け)として対自的に存在化しえない。「あ」は「あ」に対し「き(来)」は起こらない。なぜなら、「あ」はそこにあるから。「あ」はそれ自体であり自己自身だから。「あ」に別の、異(こと)なる、「あ」が来ることはない(※下記)。そうした、言・事(こと)になる場合の「こと(言・事)」が「こと(異)」。
この語は「ことにし」や「ことにおき」や「ことに侍(はべ)り」や「ことに生(お)ひ」といった動態形容的な表現がなされ、「ことにあり」が「ことなり(異なり)」という動詞に成熟する。
「紫草(むらさき)を草と別(わ)く別(わ)く伏(ふ)す鹿の野は殊異(こと)にして心は同じ」(万3099)。
「秋の露いろいろことにおけばこそ山の木の葉のちぐさなるらめ」(『古今集』)。
「さらぬ法師ばらなどにも、皆 言ひなすさまことにはべり」(『源氏物語』)。
「衣着せつる人は心ことに成るなりと云ふ」(『竹取物語』)。
「こと(異)」が一般的に言われた場合、それは他に対し一般的に「気(け)」となる、特別に存在化する、人(やものやこと)を意味し、意味的・価値的に特別な、のような意味になる。
「上(かみ)の件(くだり)の五柱(いつはしら)の神(かみ)は別(こと)天(あま)つ神(かみ)」(『古事記』)。
「法華経はさら也(法華経は言うまでもない)。こと法文などもいと多く読み給ふ」(『源氏物語』)。
この一般的に特別に存在化する「こと」による「ことA」の「A」の部分が動態・動詞になりそれに続く「~」の部分を「ば」でその条件下におく、「こと愛でば~」(『日本書紀』歌謡67)その他の、表現もある(→「こと(同)」の項)。『万葉集』の歌にある表現「秋の田の穂向きに寄れることよりに(異所縁)」(万114)を「かたよりに(片りに)」の母音変化としている例がありますが、これは「異寄り」であり、皆が一方へ寄ってもあなたは異なった方へ寄って自分を維持してください(他の人の言葉や意思に動かされないで)、の意。原文も「異」になっている。
※ この、「「あ」は「あ」に対し言・事(こと)にならない」という部分に関しては、そうなることも人間には起こりうる。それは統合失調症、精神分裂の問題であり、そうなったときその人は自我分裂が起こっている。現代社会の情報環境、言語環境には人をそうする要因はある。