「けおと(気音)」。あらゆる音(おと)が言(こと)ではなく、「け(気)」になる音(おと)、見えないが有る存在感が生じる音(おと)、客観的な、一般的な、存在感が作用する音(おと)。それが「こと(言)」。たとえば、音覚刺激があり、それにより人の接近が思われたとしてもそれは「おと(音)」。そこで聞こえたのは「おと」であり「こと」ではない。しかし「ひと(人)」という音(おと)は「こと(言)」。なぜならそれは客観的な、一般的な、存在感が作用するから。それが対象相互の作用たる現象となり事象化すれば「こと(事)」。当たり前のことですが、「こと(言)」は「こと(事)」です。なぜなら「こと」は「こと」だから。「事(こと)」が「事(こと)」であるか否かは「こと(言)」が「こと(言)」であるか否かの問題です。あらゆる人が普遍的であり、あらゆる人に普遍的な機能があるなら、気(け)も音の作用も普遍的なはずです。
「こと」となるこの音(おと)は声帯の振動と呼気により口から発せられることが最も一般的です。
「遙遙(はろばろ)にこと(渠騰)そ聞こゆる島の藪原」(『日本書紀』歌謡109)。
「たらちねの母の命(みこと)の言にあれば…」(万1774)。
「…我が大君の 諸人を 誘(いざな)ひたまひ よきことを 始めたまひて…」(万4094)。
「我が背子は物な思ひそ事しあらば火にも水にも吾(われ)なけなくに」(万506)。
(「け(気)」と「おと(音)」簡単に再記)
◎「け(気)」
「きいへ(来言へ)」。「いへ(言へ)」は「いひ(言ひ)」の已然形。子音変化し「ゆへ(言へ)」の可能性もある。「きいへ(来言へ)→け」は、来ているとは言え…、のような表現。人がそのように表現する何か。何かあると感じられること。見えないが有る何か。ないが有ると作用するなにか。…………
◎「おと(音)」
「おふと(追ふ「と」)」。「と」が追ふこと。「と」は思念的確認が表現される(→「と(助)」の項)。たとえば「人として」と言った場合、「と」で「ひと(人)」の思念的確認が起こっている。つまり思念作用が起こる。思念性とは想念作用です。想念作用は人の生態として自然に起こる(これは、生命体にはなぜ記憶とその再起という機能が備わったのかという問題になる)。「おふと(追ふ「と」)→おと」、追ふ思念作用、とは、それにより(それを追うように現れる)思念作用があること、の意。その現象を追うように思念が現れる現象、ひきつれるように思念を生じさせる現象です。ものやことが想(おも)はれること、ということ。たとえば、波の音(おと)が聞こえれば波や海が想(おも)はれ、風の音(おと)が聞こえれば風の体験が想(おも)はれ、人の足音(そう聞こえた音覚刺激)が聞こえれば(個別的具体的な特定性はなくても)人が想(おも)はれる。それが「おと(音)」。
こうした自然の音(おと)の思念性は人間の言語能力の発生要因にもなっている。言語は、人が、主に声帯を振動させ呼吸気を流動させ口から発する音(おと)です。…………
この「おと(音)」という言葉からは「こと(言)」という言葉が生まれていますが、日本語は「こと(言)」が生まれる前からある。さらには、「おと(音)」という言葉も(「おふ(追ふ)」と「と」による)二次的な表現であり、この「おと(音)」が生まれる前から日本語はある。もっとも、「おと(音)」という言葉が生まれる前は単に思念的に何かが起こっていることを表現する「と(音)」だった可能性もある。「ぬなと(瓊な音)」のように、「と」の一音で「おと(音)」を表現した例もある。