◎「こつ(屑)」
「ことへゐ(事経居)」。「こてゐ」のような音を経つつ「こつ」になっている。「ことへゐ(事経居)→こつ」は、事(こと)を経たもの、経たことから現れているもの。ゴミやカス。廃物。『万葉集』(下記万3548)の表記では「木都」と書かれている。
「鳴(な)る瀬(せ)ろにこつの寄すなす」(万3548:「ろ」「なす」はその項。この「木都(こつ)」の実体は砕けた枯葉・枯草などでしょう。これは東国の歌であり、方言的変化がある)。
ちなみに、「ものごとをうまくやるこつ」などという場合の「こつ」は「骨」の音(オン)。ものごとの中枢を支えるもの・ことの意。
◎「こつみ(屑)」
「こつみ(屑水)」。「み(水)」は一音で水(みづ)を表現した。「こつ(屑)」は廃物のこと→その項(上記)。「こつ(屑)」の実体は砕けた枯葉・枯草・枯れ木片などでしょう(廃物と言っても、現代のように、ビニール、プラスチック、産廃といったものはない)。それが水に浮かび流れ集まり滞留・堆積している状態が「こつみ」。その廃物も「こつみ」という。
「堀江よりあさ潮満ちに寄るこつみ(許都美) 貝にありせば…」(万4396)。
「こつみ」に関連して。『万葉集』歌番1137第五句が一般に「こつみこずとも(木屑来ずとも)」と読まれている。この万1137は非常に特異な歌です。原文は、
「氏人之 譬乃足白 吾在者 今歯王良増 木積不来友」(これは一般の読みに従った分かち書きになっている)。
これの読みですが、これは一字目の「氏」を音(オン)で「し」、四字目の「譬」を音(オン)で「ひ」と読むものでしょう。「譬」の字が用いられるのはこれが一種の譬(たとえ)歌だから。全体の読みは「氏人之譬乃 (しにしひの:死にし日の) 足白吾在者(たりしろああれば:足り代吾有れば) 今歯王(いまはきみ:今は王) 良増木積(よきふえこつみ:良き増え凝詰み) 不来友(こつみこずとも:木屑(こつみ)来ずとも:「木積」を二度読む)」。最後に「木積(こつみ)」を二度読むのは、この歌が「凝詰(こつ)み:ぎっしりと詰まり」と「木屑(こつみ):川に浮かび流れる木屑(きくず)」がかかった歌だから。
全体の意味は、
「氏人之譬乃(しにしひの:死にし日の)」。死んだ日の。ちなみに、「氏」や「譬」を「し」や「ひ」の音表記に用いた例はたぶん『万葉集』にほかにはない。「ひ」をあらわす「臂」はある。
「足白吾在者(たりしろああれば:足り代吾有れば)」。足り代(満ち足りた充足の代(しろ)、満ち足りた充足それとなりうるもの)たる私であるから→いつ死んでも悔いなく満ち足りているから。
「今歯王(いまはきみ:今は王)」。今は王(きみ)としてある。
「良増木積(よきふえこつみ:良き増え凝詰み) 不来友(こつみこずとも:木屑(こつみ)来ずとも)」。良きことは増えこつみ(凝詰み)になる(よきことは増え、詰まり満ちる)。こつみ(屑)が流れてこなくても(そんな廃物が流れて来るのをまっていなくても)。今は王(きみ)としてあるから。
つまり、すべてを達観し満ち足り死んでしまえば木屑(こつみ:屑(くず))も良きことの凝詰み(こつみ:充実)となり人は豊かに暮らせる王(きみ)になる、という歌なのです。
参考のため、今一般になされている読みを記しておけば 「宇治人(うぢひと)の譬(たとへ)の網代(あじろ)吾(われ)ならば今は依(よ)らまし木屑(こつみ)来ずとも」(原文の「王」は「生」の誤字とし、この「生」を「よ」と読んでいる)。この読みの歌意は不明。