◎「こそばゆし」(形ク)

「こそびはえうし(こそ日映え憂し)」。ただし、「はゆし(映ゆし)」という形容詞は古くからあるわけであり、語が生まれた際は「こそびはゆし(こそ日映ゆし)」でしょう。「はゆし(映ゆし)」はまばゆさ、特に社会的な、反映が過剰で不活性化してしまうことを表現する。語頭の「こそ」は擦過感を表現するそれですが(→「こそ」の項)、その擦過感は、物的な物理現象である場合もあります、社会的なことである場合もある、そしてその「こそ」は、日を受けた映えを感じるようなものであるがそれによる不活性化もある。

慣用的に音は「こそばい」にもなる。こそばゆい→こそばいい→こそばい。また、「くすぐったい」(→その項・下記)とほぼ同義でも言われる→「江戸の洒落本草双紙などにくすぐつたいと書ども戯文ながら浄瑠理本にはこそばいと書なり」(『東牖子(トウイウシ)』:ということは「くすぐったい」は東国系の俗語ということか?。(「えらい」という語の用い方として(※))ありえないことではない→「大いなる事を……東国にてもゑらひと云、物の多き事をいひて大いなるかたには用ひず」(『物類称呼』(1775年:できごと、事象が大きいことにも言ったのだろうということ→「くすぐったい」の項(下記)参照)。

「𡸴甞蜀桟酸 嶮(ケン)、蜀桟ヲ甞(ナメ)テ酸(スシ)……蜀ヘ行(いく)路ノ桟閣ハ𡸴ソテアフナイソ。甞ト云ハ口テ物ヲナムルヤウニ足手モアルキヲホユルソ(足手も歩き、覚ゆるそ(足も手も歩きそう思われるぞ))。酸ト云ワコソバユイゾ」(『湯山聯句鈔』:「酸(すし)」とはこそばゆいことだそうですが、身がすくむような、ウズウズするような思いを感じる、ということでしょう)。

「猶よしある人とおもへるけしきに、尻擽(コソバユ)くいとま乞て出ぬ」(「浮世草子」:居心地のよくない、ソワソワした思いになった)。

※ 「ヱライと云言葉は京阪より云出せし言葉也」(『東牖子(トウイウシ)』(1803年))。

 

◎「じれったい」その他「~ったい」

・「くすぐったい」   

「くすぐってえらい(擽ってえらい)」。R音が退化しつつ「てえら」が「た」になっている。この「えらい」は、「えらいめにあった」などにあるような、並々ではないことを表現するそれ。「くすぐって」は歴史的な原形としては、「くすぐりて」ですが、「くすぐってえらい(擽ってえらい)→くすぐったい」は、何かやなにものかが私をくすぐって私はえらいことになっている、ふつうではないことになっている、の意。

・「じれったい」

「じれいってえらい(焦れいってえらい)」。「いって」は、歴史的原形は「いりて(入りて)」ですが、この「いり(入り)」は、驚き入り、などのそれのような、まったく何ごとかの動態になること。「じれ(焦れ)」はその項。この「えらい」も、「えらいめにあった」などにあるような、並々ではないことを表現するそれ。「じれいってえらい(焦れいってえらい)→じれったい」は、まったく焦(じ)れた動態になり普通ではない状態になっている、の意。

・「はれぼったい」

「はれぼっとえらい(腫れぼっとえらい)」。「はれ(腫れ)」はその項。「ぼっ」は、「ぼ」が膨満を表現する擬態でありその語感強化発声。この「えらい」も、「えらいめにあった」などにあるような、並々ではないことを表現するそれ。「はれぼっとえらい(腫れぼっとえらい)→はれぼったい」は、腫(は)れ、膨満した普通ではない状態になっている、の意。

・「くちはばったい」

「くちはばあってえらい(口幅有ってえらい)」。「くちはば(口幅)が有(あ)る」とは、いわゆる、大口をたたく、ということであり、えらそうな口をきく、身のほども考えないことを言う、自分の能力や立場も自覚せず能力があるかのような、それをなし得る立場にあるかのような、言動をする、ということ。この「えらい」も、「えらいめにあった」などにあるような、並々ではないことを表現するそれ。すなわち、「くちはばあってえらい(口幅有ってえらい)→くちはばったい」は、大口をたたいて並々ではない、えらそうな口をきいて普通ではない、ということ。「くちはばたい」とも言う。これは「くちはばあてえらい(口幅当てえらい)」。これは大口を相手や周囲に当てる。