「いきおし(行き押し)」。「い」は無音化した。たとえば「山をいきおし(行き押し)→山をこし」の場合、「いき(行き)」は自動表現であり、「を」は、目的ではなく、状態を表現する。つまり、「山を行き」は、山という状態を行く。山という状態が進行する。「おし(押し)」は、何かに対し、それを独自の存在として遊離させる動的努力をすることを表現する(→「おし(押し・推し)」の項)。それにより、「山をいきおし(行き押し)→山をこし」は、山という状態の進行を遊離させる動態にあることを表現する。その場合、山という状態の進行はやめられ、放棄され、破綻しているわけではない。その場合には遊離対象はなくなり、遊離は起こらない。遊離が起こるとき、それは完成している。「山を行き」という動態は完成し、遊離する。それが「山をいきおし(山を行き押し)→山をこし」。その場合、「山をこし(越し)」と「山をこえ(越え)」はどう違うのかといったことも問題になりそうですが、「山をこえ(越え)」は自己の動態に関し表現が客観的であり(動態が客観的に表現されている)、「山をこし(越し)」は動態の努力自体を表現する(→「こえ(越え)」の項)。住居地を他に移す場合、「こし(越し)→引っ越し」と言い、「こえ(越え)」とは言いませんが、これは、住居地を移すことは、Aへ越す、といった、目的性をもった表現がなされることが多く、それが上記の「こし(越し)」の遊離させる動態努力を要求するということでしょう。
「大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を 手越(たご)しに(多誤辭珥)越さば(固佐縻) 越し(固辭)かてむかも(きっと越せるはずだ)」(『日本書紀』歌謡19:「手越し」は、多くの人々が並び、次々と手渡しで多数の石(いは)を運ぶ)。
「吾(わ)が大王(おほきみ)の行幸(いでまし)の山越す風の…」(万5)。
「恐らくは此に越す思案も有るまい」(『浮雲』二葉亭四迷)。
(参考として「こえ(越え)」の一部を再記)
「こえ(越え)」(動詞)
「いきをふゆへ(行き終ふゆ経)」。語頭の「い」は無音化した。「をふ(終ふ)」は動詞「をへ(終へ)」の終止形。「ゆ」は助詞。この「ゆ」は起点を表現する。たとえば「山こえ(山越え)」なら、「やまいきをふ(山行き終ふ)ゆへ(ゆ経)」、山を行き(「いき(行き)」は自動表現であり「を」は状態を表現する)、その行きが終わったことを経験経過し(ゆ)、今が経過している(経(へ))、ことを表現する。「山を行(い)き終(を)へ→山をこへ」でも良いようにも思われますが、その場合は山を進行することが完成するだけで、山を進行することの遊離が起こらない。経験経過を、この場合は起点を、表現する「ゆ」による「ゆ経(へ)」により「行き終ふ」を経験経過した「経(へ):経過」の動態にあることが表現される。つまり、この動詞は進行動態の完成や完了とその進行動態からの遊離が表現される必要があるということです。そうでなければ「こえ(越え)」にはならない(「進行動態の完成や完了とその進行動態からの遊離が表現される必要がある」という点は「こし(越し)」も同じ。つまり、「こし(越し)」や「こえ(越え)」はその二音でそれが表現される必要があるということです)。…………