「こころみおとなし(心廻音なし)」。心(こころ)が廻(めぐ)り(全域に動態感が生じ)、音(おと)が無い。心は廻(めぐ)るが、その音(おと:現実的実感を感じる反応、それを得て確信とそれによる安堵を得る反応。反響)がない。心(思い)ばかりがめぐり、それに応(こた)える現実的反応がない。
「心もとなきもの。人のもとにとみの(頓(トン)の:急ぎの)物縫ひにやりて、いまいまとくるしうゐ入りて、あなたをまもらへたる(彼方をずっと見ているような)心地(ここち)」(『枕草子』:何の反応もかえってこない)。
「三日。同じ所なり(ずっと同じ所に停泊している)。……こころもとなし」(『土佐日記』)。
「かたく封じたる続飯(そくひ:練りつぶした飯。この場合は文(ふみ)を封じた接着剤)などあくるほど、いとこころもとなし」(『枕草子』:中は何なのかと心ばかりが先走りめぐっている)。
心はあるが現実的実感がないという意味でも用いる。「花びらのはしに、をかしき匂ひこそこころもとなう(音便)つき」(『枕草子』)。
この語の語源は副詞の「もとな」に「こころ(心)」がついて形容詞化したとも言われますが、「もとなし」という形容詞もなく、「もとな」は自分でも制御できないほどむやみと、やたらと、という意味であり、この説は意味がおかしい。