「こころみ(心見)」。心(こころ)を見ること。ここでの「こころ(心)」とは外部からは知りづらい分かりづらい(人も含めた)ものやことの動態のあり方であり、「み(見)」は、診断でもするかのように、動態を確認すること。その確認のためにすることは遭遇している情況に応じて各種さまざまです。たとえば、燃えないと言われている「火鼠(ひねずみ)」の皮を実際に焼いてみる。「猶(なほ)これを焼きて心みむ」(『竹取物語』:火に焼けぬと言われていたこの皮は焼けてしまった)。
「人の身もならはしものをあはずしていざ心みむこひやしぬると」―これは『古今和歌集』の通用歌番号518(巻十一)ですが、その「嘉禄本」と言われる写本を原本に、昭和二年(1927年)初版、「假名使も、送假名も、漢字も、大體原本通に」という方針で出版されたもの。一方、1981(昭和56)年に「あるいは仮名を漢字に改め、……など、読みやすくすることにつとめた」という方針で出版されたものでは「人の身もならはしものを あはずしていざ心みん 恋ひや死ぬると」となっている。最も大きな違いは最後が「しぬ」か「死ぬ」かです(ネットではほとんどすべて、「し」と書きつつ「死」と解釈していると思います)。手書き原文のこの「し」は「志」のようです。この歌番号518は特異な表現がなされている歌ですが、二句の「ならはしものを」は、「『…なら』は『為(し)』ものを」ということでしょう。『…なら』と何かを想うことはその『…』をしていること、たとえば、あの人に添ふてゐるなら…と思うことは添ふことをしていること、ということ。文末の「を」は、~だから、ということであり、文法的に言えば順接の接続助詞ということ。「人の身はならはしものを」は、人の身というものは、『~なら…』は~為(し)ているもの、そういうものだから、ということ。そして、逢ふことなく、こころみよう、「恋ひやしぬると」。この「やしぬる」は、や~連体形、のいわゆる係り結びであり、すなわち倒置表現であり、そしてここには「恋ひ為(し)ぬ」(※1下記)と「恋ひ死(し)ぬ」がかかる。意味として、恋(こ)ひを為(し)ぬ、と、恋(こ)ひを死(し)ぬ(※2下記)、がかかる。つまり、「やしぬる」は、意味として、「為(し)ぬるは恋(こ)ひをか・死(し)ぬるは恋(こ)ひをか」、ということであり、これを、あはずして、こころみようという。人の身は、『…なら』は『為(し)』もの、だから…。恋ひするのか恋ひ死ぬのか、いざ、こころみてやろう、ということである。「恋(こひ)爲(す)」「恋(こひ)死(し)ぬ」という表現は相当に古くからある。「恋(こひ)するに死にするものにあらませば我が身は千(ち)たび死にかへらまし(恋爲死爲物有者我身千遍死反)」(万2390)。
この動詞「こころみ」は元来上一段活用ですが、上二段活用にもなる。
※1 この「為(し)ぬ」の「ぬ」は完了の助動詞ですが、動詞「し(為)」の場合、完了は「つ」の方が一般的かもしれませんが、有意的・作為的な「つ」、自然的推移・無作為的な「ぬ」と言われる状態において、この場合の「し(為)」は自然的推移・無作為的ということです。
※2 この「恋(こ)ひを為(し)ぬ・恋(こ)ひを死(し)ぬ」の「を」は状態を表現する。「瀬を早(はや)み」(瀬の状態で早まる)などの「を」に同じ。そういう場合、「を」に続く動詞は自動表現であり、この場合の「し(為)」も、音(おと)がする、などと同じ、自動表現。この場合の「恋(こ)ひをし」は、恋(こひ)という目標感のある動態をするわけではない。恋ひの状態になる。恋ひになり恋が成り立つ。