◎「こころばかり」
「~ばかり」は、同じ努力を無限循環するような動態を表現し、~の限度ほど、ということであり、その動態限度ほど、ということですが、「こころ(心)」は、思いや考えのあり方、という意味にもなり、その限度に、は、心の限り、なし得る限り、思う存分、の意味にもなり→「五百騎三百騎の中へわって入り、心ばかりの働き」(「御伽草子」)、また、身(み)と心(こころ)において「こころ(心)」は意思や思いを現し「こころばかり」が、それだけは、という意味にもなり→「心ばかりはせきなとどめそ」(『古今集』)、また、そこに、私程度のことしかできないが、という謙遜の思いも加わりつつ、なし得る限り、という意味にもなる→「舜天丸は、裳脱の殻(もぬけのから:遺体)を抱き起し、『喃(なう)母君………なほいつまでもこの土(ど)に在(いま)して、心ばかりの孝養を、などて盡(つく)さし給(たま)はざる。………やよ喃(なう)母君、母君』と声をかぎりの招魂(たまよば)ひ」(『椿節弓張月』)。
◎「こころぶと(心太)」「ところてん」
「こころぶと(凝ころ太)」。「ころ」は回転動態擬態。「こころぶと(凝ころ太)」は凝固し転がる状態で太っていくもの、の意。これは「てんぐさ(天草):海藻の一種」を、さらにはいわゆる「ところてん(心太)」を、言う。「ところてん(心太または心天、瓊脂)」は、テングサなどの紅藻類を煮溶かし、発生した寒天質を冷まして固めものであり、食用になる。「ところてん」は「とろころテン(とろころ転)」。「とろ」は「とろとろ」という擬態、「ころ」は転がること。そのような印象で「転(テン)じる(ころがる)」もの、の意。「心太」は当て字ですが、奈良時代にもそう書かれる。
「大凝菜 ……古留毛波 俗用心太二字 云古々呂布止」(『和名類聚鈔』:「古留毛波(こるもは)」は、こりうめふは(凝り埋めふは)、ということでしょう。「めふ」が「も」の音になっている。全体がふはと、やはらかく、固まり埋まるもの、の意)。