「にくし」は、「やりにくい」「扱いにくい」その他、動態表現の語頭につきその動態に障害感が生じていることも表現する。また、自分を圧倒するような何かへの思い、それゆえのそれへの関心、も表現する(「にくい剛の者かな」(『保元物語』) →「にくし(憎し)」の項)。「こころ(心)」は人たる動的主体であり、その動態的あり方一般、思いや考えのあり方、という意味でも言われる。それに障害感が生じていることを表明する「こころにくし」は、自分の、情況に対する動態的あり方に障害感が生じていること、たとえば、暗くて見にくい(「今少し光見せむや。あまりこころにくし」(『源氏物語』))、を表現し、また、その認知や理解に障害が生じながら、障害があるがゆえに、関心が惹かれる状態にあることも表現する。そして、障害感が生じるのはそれを生じさせる何かが劣っているからとは限らない。そのものやことを成し遂げたり理解したりすることが自分にはできないことによって(つまり、コンプレックスによって)障害感が生じもする。

「なに事も人にすぐれて、心にくく、世にも、いみじく有心(ウシン:心得がある)にふかきものに思はれて」(『夜半の寝覚』)。

「心にくきもの。ものへだてて聞くに、女房とはおぼえぬ手の(※)、しのびやかにをかしげに聞えたるに、こたへ若やかにして、うちそよめきて参るけはひ」(『枕草子』:どういう人のどういう事情だろうと心惹かれている。※人を呼ぶ際に手を打ち音を発したらしい)。

「こころにくく思ひて、盗人いりまうできて」(『宇津保物語』:何があるのだろう(もしかすると金目のものが)、と心惹かれ盗人が入った)。

「心にくうも候はず」(『平家物語』:問題になる相手ではないと言っている)。

「『はて、心にくき』『野狐の振舞』」(「歌舞伎」:髑髏(ドクロ)を取って穴へ入った狐を不審に思いつつこれに心ひかれている)。

「薫物(たきもの)の香、いとこころにくし」(『枕草子』)。