◎「こころしり(心知り)」(動詞)
この場合の「こころ(心)」が、人の心(こころ)、人の生態のあり方それ自体、であれば「こころしりたる人」はお互いがお互いを心得、つきあいに抵抗や障害のない、心を許せる懇意な人(→「次の御車には、明石の御方、尼君忍びて乗りたまへり。女御の御乳母、心知りにて乗りたり」(『源氏物語』))。それが、ものごとの心(こころ)、ものごとのあり方、であれば「こころしりたる人」はそのものごとを心得、事情がわかっていたり、そのものごとに精通したりしている人(→「なほ、このわたりの心知れらむ者を召して問へ」(『源氏物語』))。
◎「こころつき(心付き)」(動詞)
「こころつき(心付き)」。「つき(付き)」という動詞は思念的に何かが活性化した状態になっていることを表現し、接着を表現することはその応用であり、ここでも接着を表現するわけではない。ここでの「つく」は、思ひつく、や、明かりがつく、のそれ。漢字ではむしろ「点く」と書いた方が分かりやすいかもしれない。「こころつき(心付き)」は心が活性化する。比喩的に言えば、「こころつき」は心に明かりがついたような状態になること。
「Aとこころつき」や「Aのこころつき」はAという内容で心が活性化する。「仕うまつらまほしと、こころつきて思ひきこえしかど…」(『源氏物語』:お仕えしたいとこころが活性化して思っていたが)。「昔、こころつきて色好みなるをとこ…」(『伊勢物語』)などは具体的内容は直接には言っていませんが「色」の世界に活性化したことは分かる。受け身で「こころづかれ」は心が活性化することをされるわけであり、気に入られたことを意味する。「重盛公よりお心付(こころづ)かれし白拍子」(「歌舞伎」)。一般的な「こころつき」は一般的に心が活性化すること、すなわち、正気になったり元気になったりすることや気に入ること(心にかなうこと)を意味し(「人の家より物見に出づる車を見て、こころつきにおぼえ侍(はべ)りければ」(『後撰和歌集』:車が気に入った))、個別的・具体的なもの・ことに関する「こころつき」はそれが自覚されること、すなわちそれに「気づく」とほとんど同じ意味になる。「誠に最前から心附(こころづき)ませなんだ」(「狂言」)。
「こころづきなし」はこころが活性化することがない。
これは「こころづき」と濁音化もする。
他動表現は「こころつけ(心付け)」。
◎「こころつけ(心付け)」(動詞)
「こころつけ(心付け)」。「こころつき(心付き)」(その項参照)の他動表現。心を活性化させること。
「Aにこころつけ」と言った場合、(a)Aに関し自分の心が活性化する場合(自分で自分を活性化させる場合。つまり、活性化し。たとえばAに恋愛感情として夢中になる場合)と、(b)Aの心を活性化させる場合がある。「世の中にこころつけずて思ふ日そ多き」(万4162:これは(a)の場合。世の中に心が活性化しない)。個別的・具体的内容に関しAの心を活性化させた場合、それはAにその個別的・具体的何かを気づかせたりそれに注意させたりする。「物は破れたる所ばかりを修理(スリ)して用ゐることぞと若き人に見ならはせて心つけむためなり」(『徒然草』:これは(b)の場合。だから(すべてを張り替えることはせず)斑(まだら)に障子を張り替えているのです、とある尼が言った)。
金品の贈与を「こころづけ(心付)」と言いますが、相手に与え、何事かに関し相手の心を活性化させる金品を言う。つまり、AからBへ「こころづけ」が移動した場合、活性化されるのはBの心であり、それはAの心がBにつけられる(接着される)わけではない。
「こころづけ」と濁音化もする。