◎「こころおき」
心(こころ)を置くことですが、何かに心を置けばその何かを我が心とするように対応し、何かに対し心を置けば (何かに対し、それに対し独立存在化し心を置けば、その何かを自分から遊離させ独立存在化させれば(この場合は「措き」と書いた方がわかりやすい))、我が心ではない何かに対応する状態(心に隔てがある状態)になる。「かくあらむと(あなたが死ぬと)知らませば心おきても語らひ…」(『続日本紀』)は前者。「心おきなく」の「心おき」は後者。
(「おき(置き・措き)」の初めの部分だけ簡単に再記)
「おき(置き・措き)」(動詞)
「お」の音(オン)(あらゆる子音を問わずO音)は遊離感のある目標感、そこへ向かって行く方向感のある対象感を表現し、この遊離感のある目標感は、遊離した、離脱した、存在感にもなる(動態的独律感が生じ、これが存在感になる)。それらは、物だけではなく、事象や動態でも表現される。「コップを机におく」はコップを机に遊離した(独律的)存在感を生じさせる。この遊離感のある対象感は離脱感にもなる。「彼をおいてほかにはない」は「彼」を遊離、離脱させる(この意味の「おき」は「措き」とも書かれる)。「間(ま)をおく」は時間域に存在感を生じさせる。………
◎「こころぐし」(形ク)
「こころおきうし(心置き憂し)」。この「こころおき(心置き)」は何かに心を置くこと。常に何かを思いそればかりが気になる状態になること(心措き、ではない→「こころおき」の項・上記)。その状態が「うし(憂し)」である、その状態に不活性化した憂鬱を感じている、とは、なにかに心をひかれていることの憂鬱さ、苦しさ、を表現する。それを自分がそんな状態になっている人に伝えた場合、それは、好きです、とは言わずに、ただ漫然と思っていることには、不安定で、憂鬱で、耐えられない、と伝えることでその人への思いを伝える(言外に、会いたい、会ってこの憂鬱さ、苦しさから救って、と伝える)ような表現になる。
「こころぐきものにそありける春霞たなびくときに恋の繁きは」(万1450)。
「春日山(かすがやま)霞たなびきこころぐく照れる月夜にひとりかも寝む」(万735) 。
「…娘子(をとめ)らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり こころぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ」(万3973:末尾の「ことはたなゆひ(許等波多奈由比)」は語義未詳とされますが、「たな」は「たなぐもり(たな曇り)」や「たなきらひ(たな霧らひ)」のそれが応用された表現であり、まったく欠けるところなく、の意。それよる、事(こと)はたな結(ゆ)ひ:事(こと)はすべて約束されている→事(こと)はもうすべて決まっています、ということでしょう)。
「妹も我れも 心は同(おや)じ たぐへれど いやなつかしく 相見れば 常初花(とこはつはな)に こころぐし めぐしもなしに …」(万3978:「めぐし」も愛らしさを感じていることの胸が苦しくなるような思いを表現し、「こころぐし めぐしもなしに」とは、そんな苦しさもない安らかな豊かな思いでともにいられる、ということ)。
「こころぐく思ほゆるかも春霞たなびくときにこと(事:原文)の通へば」(万789:この歌の「こころぐく」は表記が独特であり「情八十一」と書かれている。これは九九(くく)八十一、ということであり、「八十一」を「くく(九九)」と読んでいるということは、遅くとも奈良時代には掛け算九九があったことを意味している。また、万786から万792の歌は、多くの人がなにごとかに気づきながらそれには触れないようにし、まだ幼い(大伴家持の)娘への思いを伝える男とのやりとりであるかのように解釈されていますが、これらは男同士の相聞歌です)。