「こころ(凝ころ)」。最初の「こ(凝)」は凝固感を表現する。次の「ころ」は、転がる(物体がそれ自体回転しながら移動する)ような動態を表現した擬態。「こころ」はある程度の凝固感をもって転がるような動態が擬態で表現されている。これは、心臓の動き、鼓動を表現した擬態表現。これが循環系中枢器官の内臓たる心臓を意味し鼓動を表現する。「こころ」は循環系内臓器官たる心臓を意味し鼓動を表現する和語です。「心……ココロ 五臓之一也」(『色葉字類抄』)。『新撰字鏡』の「心」の説明には「人心立蔵也」とある。また、その動きが生命活動を表現するその動態を表現したこの言葉は人という動態の中枢を意味する言葉となり、「こころ」は人たる主体を動的に把握した表現になる。それは人の動的主体であり、動態です。すなわち生命活動たる動態それ自体。「こころ(心)」は人の動態的あり方一般(→「里心(さとごころ)」「絵心(ヱごころ)」)、思いや考えのあり方(→「その歌の心」)、という意味でも言われる。「心苦し」の「心(こころ)」は自分の思いや考えのあり方一般で、ということ。「心にくし」のそれは自分の動態一般で、ということ。しかし、その生命活動それと言ってもいいその動態の把握は外から、外観から、は正確には分かりにくく、あるいは、分からず、「こころ(心)」は分かりにくいもの・こととして表現されることが多い(人は人の心がわからず不安定な状態におかれることが多いということ)。「身もこころも」という言い方で身と心(こころ)が分離した表現がなされるのは、心(こころ)は動的主体であり、身は物的存在だからです。たとえば「こころつき(心つき)」は、人たる主体のその動的性向に同動することを表現する。同動しなければ「こころつきなし(心つきなし)」(気に入らない。心が引かれない)。「(Aを)こころえ(心得)」は、ただ(Aを)知っているのではなく、(Aが)人たる主体のその動的性向に受容されている(「それは心得ております」)。「こころなし(心なし)」は、「こころ」は生命活動たる動態表現であり、それがないとは、心(こころ)たる動態がない。結果として、そこには生命体たる人がいない(「心ない言葉」(生命体たる人がいない言葉)。趣(おもむき)のわかる性向や配慮する性向がない、という意味の「心なし」もある。「格子を上げたりけれど(格子はあげてあったが)、守、『心なし』とむつかりて下しつれば…」(『源氏物語』:これは、配慮がない、のような意))。「こころなしか」の「なし」は、為し、であり、心によってなされたのか、ということであり、自分の心がどういうものなのか、なぜそうなるのか、人はすべて明瞭にわかっているわけではない。一般的に、そこに人がいる、という意味では「こころあり(心あり)」という表現はほとんどない。あるとすれば、鶯に対し、もし心があるならば、と呼びかけるような表現である。通常の「こころあり(心あり)」は、ある種の趣味・風情を心得ていたり、謀反を考えることその他、何らかの意図があったりすることです。「心を大切にする」は鼓動を大切にすることであり鼓動は生命に直結する心情が現実化する。

漢字表記は「心」のほか、「情」「意」「神」「景迹」「性質」「精神」などとも書く。

「たちこもの発(た)ちの騒きにあひ見てし妹が心(こころ:己己呂)は忘れせぬかも」(万4354:防人の歌)。

「つぎねふ 山背(やましろ)道を 人夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し 徒歩(かち)より行けば 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ そこ思ふに 心(こころ)し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に 蜻蛉領巾(あきづひれ) 負ひ並(な)め持ちて 馬買へ我が背」(万3314)。

「おほゐこが はらにある きもむかふ こころをだにか あひおもはずあらむ」(『古事記』歌謡61:これは、「あひおもはずあらむ」は「こころをだにか」、という倒置表現)。

「然らば汝(いまし)の心(こころ)の清く明(あか)きは何(いかに)して知らむ」(『古事記』)。

「心 …火之精也 色赤」(『和名類聚鈔』:「火之精」とは、中国の木火土金水の五行説による表現。これは『説文』にある「博士說以為火藏」が書かれたものでしょう。『和名類聚鈔』に「心」の和名は書かれていない)。

「心 …ココロ」(『類聚名義抄』)。「膓 …ハラ ハラワタ オモフ(ヒ) ココロ クソフクロ」(『類聚名義抄』:「クソフクロ」は内臓器官たる腸の和語。つまり「膓(シャウ):「腸(チャウ)」の俗字」は「ハラワタ」とも「クソフクロ」とも「ココロ」とも読むということ)。