「いきをふゆへ(行き終ふゆ経)」。語頭の「い」は無音化。「ゆ」は助詞。これは起点を表現する。たとえば「山こえ(山越え)」なら、「やまいきをふ(山行き終ふ)ゆへ(ゆ経)」、山を行き(「いき(行き)」は自動表現であり「を」は状態を表現する)、その行きが終わったことを経験経過し(ゆ)、今が経過している(経(へ))、ことを表現する。「山を行(い)き終(を)へ→山をこへ」でも良いようにも思われるが、その場合は山を進行することが完成するだけで、山を進行することの遊離が起こらない。経験経過を、この場合は起点を、表現する「ゆ」による「ゆ経(へ)」により「行き終ふ」を経験経過した「経(へ):経過」の動態にあることが表現される。つまり、この動詞は進行動態の完成や完了とその進行動態からの遊離が表現される必要があるということである。そうでなければ「こえ(越え)」にはならない。
進行は、空間を進行するだけではなく、時間に関しても言われ(ある一定の時間や年月を越える)、社会的・人間的なことにも言う。「立場を越え」、「記録を越え」、「一線を越え・限度を越え」、「予想を越え」。
「梯立(はしたて)の 嶮(さが)しき山も 我妹子(わぎもこ)と 二人(ふたり)越(こ)ゆれば(古喩例麼) 安蓆(やすむしろ)かも」(『日本書紀』歌謡61)。
「祝部(はふり)らが斎(いは)ふ社(やしろ)の黄葉(もみぢば)も標縄(しめなは)越(こ)えて落(ち)るといふものを」(万2309)。
「いみじきこと(柏木の死)を思ひたまへ嘆く心は、さるべき人びと(当然そうある人々、つまり身内の人々)にも越えてはべれど…」(『源氏物語』:「思ひたまへ嘆く」は意味としては、思い嘆く、と変わらない)。