「上代特殊仮名遣い」なるものがあります。古い時代、語音が漢字音を利用して書かれ、漢字は表音文字ではないので、同じ語音を、そのときの事実上の音を同じくする異なった漢字で書くことも起こったのですが、たとえば後世では同じ「こ」が、二群の異なった漢字群で書きわけられ、併用が起こらないことが判明した(ただし、100パーセント厳密にそうなっているというわけではなく、誤差のような混用はあります)。これは江戸時代に本居宣長が発見し弟子の石塚龍麿がよくわからないまとめ方をし、大正から昭和にかけての国語学者・橋本進吉が完全にまとめあげたものです。これは子音K(G)音・H(B)音・M音では母音I音・E音に関して、子音K(G)音・S(Z)音・T(D)音・N音・M音・R音・Y音では母音O音に関して現れる。
たとえば「こ」の表記の場合、「古、故、枯、姑、祜、高、庫、侯、孤、固、胡、顧」 の漢字群と 「己、忌、巨、去、居、許、虚、興、莒、渠、據、擧」 の漢字群に分かれる。前記橋本進吉によって前者は甲類、後者は乙類と呼ばれた。
とすると両群の音(オン)の違いはということになるわけですが、表音文字をもたない中国において(インドの悉曇学の影響を受けつつ)漢字音の表現と伝承のために工夫された反切(ハンセツ)によって漢字音を知ろうと思っても限界がある。たとえば「古」の場合、『集韻』にはその音は「公戸切(公の子音と戸の母音)」とあり『正韻』には「公」の音は「古紅切(古の子音と紅の母音)」とあり『説文』には「戸」の音は「侯古切(侯の子音と古の母音)」とあり、総体的に、「古」は子音は「古」で母音は「古」であるらしい。それはまぁ、そうではあろうけれど、音はわからない。現代の日本ではこの字の音は「コ」なので、「こ」だろうなと思うだけです。
では、現代の中国(中華人民共和国)ではこの字の音はどうなっているのか。中国では1900年代前半にヨーロッパ系アルファベットによる語音表記に触発され拼音(ピンイン)と呼ばれる漢字音の特殊な表音記号が作られ、また、ヨーロッパ系アルファベットを発音記号として利用した漢字音表記(これもピンインと言われる)も行われる。そのヨーロッパ系アルファベットを利用した現代の中国(中華人民共和国)における「古」の音は「gu」。以下、現代の中国(中華人民共和国)における上記甲類・乙類字の音を記せば、
(甲類)
古-gu、故-gu、枯- ku、姑-gu、祜-hu、高-gao、庫-ku、侯-hou、孤-gu、固-gu、胡-hu、顧-gu
(乙類)
己-ji、忌-ji、巨-ju、去-qu、居-ju、許-xu、虚-xu、興-xing、莒-ju、渠-qu、據-ju、擧-ju
つまり、甲類は g,k,h系であり、乙類は j,x,q系であり、両群の違いは、母音の違いではなく、子音の違い。
ここからは推測なのですが、
中国語は、長い歴史的な時間を経、K音系の音がY音系へ変化していきます。「可(カ)」は「jia」、「牙(漢音、ガ。呉音、ゲ)」は「ya」、「金(漢音、キン。呉音、コン)」は「jin」、「九(漢音、キウ。呉音、ク)」は「jiu」、「見(ケン)」は「jian」(チエン、と、シエン、の間のような音)、「言(漢音、ゲン。呉音、ガ)」は「yan」(yanとは書いてありますが、ィエン、のような音です)。
思うに、上記「上代特殊仮名遣い」における「こ」の表記は、甲類「こ」に用いられる漢字は子音「くを(kw)」系、乙類「こ」に用いられる漢字は「こー(kh)」系なのではないでしょうか。乙類系の漢字はその変化過程で「きょ」にもなりそれが伝えられもする。
乙類系の漢字「巨、去、居、許、虚、莒、據、擧」はすべて漢音キョ・呉音コ。「己」は漢音キ・呉音コ。「興」は漢音キョウ・呉音コウ。つまり、これらは呉音が万葉仮名などに利用され、漢音が後世に広く伝承されている(呉音も用いられないわけではない)。
問題は甲類系の漢字のg音系です。k音系やh音系は上記乙類系の漢字の音変化と同じ理由でわかる。しかし、日本で「こ」として利用されている漢字の音がなぜg音化するのか。これは、たぶん、その子音はkw系の音であり、w音により歴史的なy音化への変化が阻止され、それにより濁音化しているのではないでしょうか。これはあくまでも推測です。推測とは言っても、このサイトで行っているような方法で日本語の語源を考えているとそう思われてくるということです。