自己確認(記憶化)の助動詞「き」(過去・回想の助動詞と言われる「き」(文法的に言えばその終止形ということになる))に意思・推量の助動詞「む」がついたもの(たとえば「ありき」に「~む」がつけば「ありけむ」になる)。助動詞「き」・助動詞「む」に関しては「き(助動)」「む(助動)」の項参照(その場合、助動詞「~む」は未然形につく、過去の助動詞「~き」に未然形なんてあるか?といった疑問に関しては「む(助動)」の項(べつに未然形についているわけではないということです))。「き」がなぜE音化し「け」になるのかに関しては「む(助動)」の項参照。この「~けむ」は確認記憶内容に思動(推想・推量)が起こり(「~き」は~という動態の確認記憶化であり、それは~という動態への感銘であり、「~けむ」はその動態への思動(推想・推量)が起こり)、それを表現する。自己確認に推量が起こるというといかにも複雑なことが起こっているようですが、ようするに、今ごろこうだろう、や、昔そうだったとかいう、といった事実推量が感銘的に起こります(それは今を推想したり過去の記憶が再起するとはかぎりません。未来が、そのときは~だろう、のように、推想されることもある(そうした理解は、文法でこの助動詞は「過去の事態を推量する」と説明されていることにより邪魔される))。
「わが袖振るを妹見けむかも」(万134:私が袖を振るのを妹(いも)は見ただろうか:最後の「かも」は気づき的詠嘆の「か」と思いが溢れるような「も」による「かも」→「かも(助詞)」の項。この歌は「~妹見つらむか」(万132)の別伝とされる歌であり、これは、見ている想いが広がる、という、今への感銘になる)。
「昔こそ難波(なには)田舎(ゐなか)と言われけめ…」(万312:昔こそ難波は田舎と言われただろうが…:「けむ」の語尾はE音化している。こそ…已然形、のいわゆる「係り結び」といわれるもの。この「~けむ)」は過去を想っている)。
「古(いにし)へにありけむ人の……伏屋立て妻問ひしけむ、勝鹿の真間の手児奈が奥つ城(き)を…」(万431:昔そういう人がいたというその人の…。妻問ひしただろう…)。
「真木の葉のしなふ勢(せ)の山しのはずて吾が越え行かば木の葉知りけむ」(万291)。この歌は、四句「吾超去者」を「越え行けば」と読みつつ、愛でずに行けば、木々の葉もその無骨さを知るだろうに、とする説もありますが、この解釈は明らかに、行けば、を、行ったら、という、仮想に解している。しかし仮想なら読みは「行かば」になるはずです(活用語尾E音で、たとえば「行けば」が、仮想を意味するようになるのは室町時代ころです)。また、「行けば」と読みつつ(あるいは、越えぬるは、と読みつつ)、これを逆接と解し、越え行くが木の葉は(しのはずに行く私の事情を)知ってるだろう、と解する説(あるいは、越えぬるは、と読みつつ、木の葉はその事情はわかってくれているだろう、といった解釈をする説)もある。しかしこの説はその事情の意味がよくわからない(官命を帯びてわき目もふらず進む人が想定されたりしているらしい)。この歌は四句「吾超去者」の読みは、吾(わ)が越(こ)え行(い)かば、でありその意は仮想であり(動詞と「者」で仮想に読むという例は「爾苦久有者(にくくあらば)」(万21)がある)、五句は、木の葉が知っているわけではなく、木の葉を知っている、ということであり、全体の意味は、真木の葉のしなふ勢(せ)の山をしのはず通り過ぎたら、そのとき私は木の葉を知っている(と言える)だろう(しかし私はしのはずに通り過ぎることはできない。私はまだまだ木の葉を知り得ない。木の葉はそれほどにその意味や美しさは奥深い)、ということでしょう。「~けむ」に関して言えば、ここで言う、木の葉を知る、は過去や現在にあった事実ではなく、仮想の事実です。