◎「げび」(動詞)

「グヱもみ(愚穢も見)」。「ぐゑ」が「げ」に、「もみ」が「び」になっている。活用は「み(見)」と同じ(上一段活用)。「愚(グ)」は頭の働きに暗い印象や薄暗い印象があったり、鈍(にぶ)い印象があったりすることであり、「穢(ヱ)」は荒れすさみ汚(きたな)らしいということなのですが、ようするに、人間性の汚(きたな)らしさが「愚穢(グヱ)」と表現された。その「愚穢(グヱ)」を現実に見たかのようであることが「グヱもみ(愚穢も見)→げび」。この語は慣用的に「下卑」と書きますが、当て字。この語は、すくなくとも江戸時代には、江戸系の語であるらしい。難波では「げび」ていることを「ゲサク(下作)」と言ったらしい。これは「ゲヒン(下品)」と同じような意。「下(ゲ)さく 江戸ていふげびたなり」(『浪花聞書』(1800年代初期頃))。「上び」「上美」「常美」などと書かれる「じゃうび」という語(動詞・下記)もあり、それを「上(ジャウ)び」とし「げび」を「下(ゲ)び」として対に考える説もありますが、意味として対にもなりえますが、対で生まれている語というわけではない(また、この説は「び」の意味がよくわからない(「都(みやこ)び」や「鄙(ひな)び」などのそれの場合上二段活用になる)。また、「げび」は一般的に、格下(カクした)、という意味でもない)→「じゃうび」の項。

「『……ただし、おほやけの御前にて、『ふぐり(陰嚢、を寒いので)あぶらむ』など候はんこと、無下に(なんの疑問もなく)げびて、恐れや候はんずらん(おそれおおいことなのではないか)』と云ふ」(『十訓抄』)。

「げび 下卑とかきていやしくさもしきてい(体:様子、あり方)なり」(『好色伊勢物語』)。

 

◎「じゃうび」(動詞)

「ジャウもみ(上も見)」。「もみ」が「び」の音になっている。「ジャウ(上)」は、上流や上級、上品、などのそれであり、さまざまな意味で「上(ジャウ)」、格が上(うへ)、ということ。「ジャウもみ(上も見)→じゃうび」は、その「ジャウ(上)」を見たようだ、それが現実にそこにある印象をうける、ということ。

「当代乃御侍ハ無事せいひつ(静謐)常美(じゃうび)たる時代なれば上下万民(ばんみん)花車(きゃしゃ)風流(ふうりう)をこのみて…」(『可笑記』:「じゃうび」は原文にある読み仮名。「きゃしゃ(花車)」はその項・下記)。

「此ノ歌ハ上ノ(これの前に記した歌)ヨリ上ビタホトニ ツケテ歌ウ者カ数百人ニスクナウナツタソ」(『玉塵抄』:「ツケテ歌ウ」とは、そこに書かれた漢文にあるところの、(人々が歌に) 「属和」するということでしょう)。

 

◎「きゃしゃ(花車)」

「キやシャヤや(綺や洒野や)」。語尾の「や」は無音化した。「綺(キ)」は『説文』に「文繒也」。「文」は『廣韻』に「又美也,善也,兆也」。「繒」は『説文』に「帛也」。「帛(ハク)」はねり絹。つまり「綺」は輝くような美しさ。「洒(シャ)」は『説文』に「滌也」。「滌(ジョウ)」は濯(すす)ぐ、洗い落とす。「野(ヤ)」は象徴的に粗野であり、文化的・美的に洗練されていないことを意味する。つまり「洒野(シャヤ)」はそうした粗野な、洗練されていない印象を洗い落すこと。「や」はなにごとかを疑惑的に考える。「キやシャヤや(綺や洒野や)→きゃしゃ」は、そうした意味で、これは「綺(キ)」か、「洒野(シャヤ)」は成し遂げられているかと思案し工夫し努力することであり、そのような努力の結果たるものやこと。つまり、粗野であったり泥臭くなかったりする、洗練された美しいものやことを表現するということ。この語は習慣的に「花車」「花奢」「華奢」「香茶」「繊麗」「優雅」といった書き方もしますが、すべて、その意を表しそうな、時にはその音に近い、字を選んだ当て字。また、「野(ヤ)」であることを洗い落とし「綺(キ)」であろうとするこの風俗は、骨が太く筋力もあり逞(たくま)しく農作業もなし得、武にも力を発揮するような類型の人間ではなく、細身で着物の着こなしにも気を使うような類型の人間に担(にな)われる印象が強く、姿形が細く、土臭さからは離れた趣味や風情が感じられる人を「きゃしゃ」と表現したりもし、さらには、やせて構成に頑丈さがあまり感じられない人を「きゃしゃ」と言ったりもするようになる。

ちなみに、「花車」を、かしゃ、と読むと別の意味になる。これは遊郭における遊女の監督指導を行っていた相当な歳の女、揚屋(あげや:遊女屋ではないのですが、ある程度高級な遊女を呼べる店)の女主人などを意味する。これは字の通りの意味であり、遊女を花としてそれを乗せてやって来る車の役割を果たす人、ということでしょう。もっとも、地獄の車たる火車(かしゃ)、それによる火車婆(かしゃばば:悪心の婆)の洒落もあるのかもしれませんが…。

また、派手におごり高ぶっているという意味で「華奢(カシャ)」と言ったりもする。これも「きゃしゃ」とは読まない。

「きやしやなるおけふたつまいる」(『御湯殿上日記』(1489年記)) 。

「Qiaxa. Cosa limpia,polida,vistosa」(『日葡辞書』(1603-1604年):Qiaxa(きゃしゃ) 清潔で洗練された派手なもの) 。

「当代乃御侍(おさむらひ)ハ無事せいひつ(静謐)常美(じゃうび)たる時代なれば上下万民(ばんみん)花車(きゃしゃ)風流(ふうりう)をこのみて…」(『可笑記』(1636年):「ばんみん」や「じゃうび」や「きやしや」や「ふうりう」は原文にある読み仮名。「おさむらひ」は原文にはない)。

「おさゐは有繫(さすが)茶人の妻、物數奇(ものずき)も能(よ)く気も伊達(だて)に、三人の子の親でも、華奢(きやしや)骨細(ほねぼそ)の生付(うまれつき)…」(「浄瑠璃」『鑓の権三重帷子』1717年初演)。