「けつきはり(気つき張り)」。「け(気)」は、無いが有ると感じられるなにか。「つき」は、眼つき、顔つき、などのように、様子たる印象を表現する。「はり(張り)」は情況感としてなにごとかをあらわす→「威を張る・威張る」。「けつきはり(気つき張り)→けつかり」とは、気(け)の様子をあらはし、ということであり、無いが有ると感じられるなにかを、それさえ明瞭性はなく漠然と、そんな様子が感じられはする、ということであり、様子だけはいかにもあるかのように現し、ということであり、なにものかの存在感があるかないかであること、とるにたらずほとんどないこと、を表現し、これは、その「けつかり」の主体の存在感を、その、有る、や、居る、を、非常に軽んじた、それをないがしろにした、ある場合には侮辱した、さらには罵(ののし)った、表現になる。また、これにより、「~けつかり」や「~てけつかり」と、ある動態を、そしてその動態の主体を、ないがしろにし軽んじた、さらには侮辱した、さらには罵(ののし)った、表現にもなる。

「巡礼等は…あら筵(むしろ)へけつかり」(『蓑張草』「評判記」:これは、居る、ということですが、座っているでしょう)。

「ここらへはうせぬかとうそうそ見まはし神子の門、こりゃここにけつかると引出せば…」(「浄瑠璃」:これはその場所に居た)。

「おいらが仲間におのれが様な奴がけつかるが唐人組の名折れ」(「歌舞伎台本」:これは社会的な人間関係として居る)。

動態に「けつかり」が接続し、

「其程(それほど)見度(みたく)ば近くへ寄つて見(みら)れに来た。サア我(わが)存分に(自分の気がすむまで)見居(みけつか)れ」(「浄瑠璃」『心中二枚絵草紙』:ようするに、くだらない連中の動態として表現している)。

「ハテ、亭主が女房を返り討ちとは珍しい。敵同士でも夫婦は二世、先きに殺して遣(や)る程に、未来は一つ蓮(はち)すの楽しみ。半座を分けて待つてけつかれ」(「浄瑠璃」『嫗山姥(こもちやまうば)』:これは、闘争関係に入った相手への威嚇的罵(ののし)り)。