「きえさえやか(消え冴えやか)」。「さえ(冴え)」はそれにより表現される一変感により情況や情景の明晰感も表現する動詞であり(情況から何かが抜けた一変感は情況や情景の明晰感にもなる→「さえ(冴え)」の項)、「~やか」は「はれやか(晴れやか)」などのそれですが、「きえさえやか(消え冴えやか)→けざやか」は、(ものであれことであれ)なにかに関し、消えることと(出現するように)一変し明晰になることが同時に起こるような状態になることを表現する。(そうした表現はありませんが)「きえやか(消えやか)」と「さえやか(冴えやか)」を融合させたような表現です。なにものかやなにごとかが明晰になり、それは、光感覚的なこと、すなわち視覚的なことに関しても言い、触角的なことに関しても言い、事象の社会的印象や人の動態印象に関しても言う。音感覚的なこと、すなわち聴覚的なことに関して表現することなども不可能ではないでしょう。
「けざやぎ」という動詞もある(際立つ、とか、目立つ、とか、そういった意味)。この語は「花(はな)やか・花(はな)やぎ」、「あざやか(鮮やか)・あざやぎ(鮮やぎ)」の関係にあるような「けざやか・けざやぎ」ということですが、「~やぎ」はその項。「『…(玉鬘(たまかづら)を)うけばりて(請けを張って。堂々と公認して)とり放ち(現状から放つ、ということであり、自分が責任を負い引き取る状態になり)、けざやぎたまふ(目立ち際立つことをする)べきことにもあらねば(はずもないから)…』」(『源氏物語』)。
「白き(衣)に、けざやかなる髪のかかりの(髪がかかっているその様子の)…」(『源氏物語』)。
「(源氏が)藤壺のまかでたまへる三条の宮に、御ありさまもゆかしうて、参りたまへれば、命婦、中納言の君、中務(なかつかさ)などやうの人びと(源氏に)対面したり。(源氏は)『けざやかにももてなしたまふかな』と、やすからず思へど、しづめて…」(『源氏物語』:この「けざやか」は「善し悪しきけぢめも、けざやかにもてはやし、またもて消ち軽むることも、人に異なる大臣(おとど)なれば…」(『源氏物語』)のようなそれであり、自分に直接会うこともせず、もてはやすべきことはもてはやす、消つべきことは消つ、という、社会的けぢめ、というようなことを厳格につけていることにいささか辟易した、ということでしょう)。
「九月ばかり、夜一夜ふりあかしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかにさし出でたるに…」(『枕草子』)。