「けいれ(気入れ)」。「く」はE音I音の連音がU音になっている。「け(気)」は、見えないが有る何か、ないが有ると作用するなにか、ですが、この場合の「対象aのけ(対象aの気)」とは、現実的具体的に、見ることができ触ることができる状態で対象aがなくとも対象aがあると作用するなにごとかであり、対象aの想念的存在であり、作用であり、その作用が社会的に全的に主体Aの影響下にある場合、対象aは主体Aの権利下にある。近代的な言い方をすれば、aはAの所有物であり、aに関する所有権はAに帰属している。すなわち、「対象aをけいれ(気入れ)→対象aをくれ」とは、対象aの、ないが有ると作用するなにか、対象aの見ることができ触ることができる状態で対象aがなくとも対象aがあると作用するなにごとか、を入れ、ということであり、その対象aへの全的支配的影響力を入れ、所有権を入れ、という意味なのです。この表現が、対象aが現実的具体的に見ることができ触ることができる状態にある場合も同じ意味で作用する。すなわち、「くれ」とは、近代的な言い方をすれば、所有権を与えることの表明でありそれが受容されることなのです。「Aが(aを)Bにくれ」はaはAからBへ移転する。「Aに(aを)Bがくれ」はaはBからAへ移転する。

この「けいれ(気入れ)→くれ」という表現は、相手の意思や同意への尊重感がとぼしく、ある場合にはなく、相手への尊重がとぼしい印象が強くなる。とくに「Aが(aを)Bにくれ」の場合がそうです→「犬なんどに物をくるると云は、やしなふ心也」(『壒嚢鈔(アイナウセウ』)。

この語は「~てくれ」と、動態の作用・影響を入れる、動態の影響をあたえる、という意味でも用いられますが、その場合にも入れる相手への尊重感はとぼしく、自己が入れられる場合は自己卑下の状態になる→『ぶちのめしてくれる』『やめてくれ』。

「呉れ」という表記は「呉(ゴ)」が「くれ」とも読むことによる慣用的な当て字。「呉(ゴ)」に日本語動詞「くれ(呉れ)」の意味はありません(この字の意味は「娯楽(ゴラク)」の「娯」にあるような意味です。「誤解(ゴカイ)」の「誤」における「呉」はただ音(オン)を表しているだけでしょう)。

「汝(いまし)は汝(いまし)が持(も)たる八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)を予(われ)に授(く)れよ」(『日本書紀』)。

「この長櫃(ながびつ)の物は、みな人、童(わらは)までにくれたれば、飽き満ちて(食べ飽きて)…」(『土佐日記』:届いた長櫃の中には食用の魚などが入っていた)。

「おのれ憎いやつの。今此杖で甲らを打碎(くだ)いてくれう」(「狂言」:これは蟹の精なるものに言っている)。

「いかにもして杣山(そまやま)の城へ入進(いれまゐら)せてくれよ」(『太平記』)。