回転を表現する擬態「くるくる」の「くる」によるその情況動態表現「くるり」の動詞化。回転を思わせる動態を行うこと。これは同じ動態が何度も反復することも表現する。また、「糸繰(く)り」の影響により、手前へ、自分の方へ、引き寄せる動態印象も強い。「頁をくる」。ある動態が回転の一部である場合それは反復的です→「くりかえし(繰り返し)」。「繰り言(くりごと)」は同じことを何度も言うこと。「勘(カン)ぐり」は次々と想や結果を引き出すこと(「カン(勘)」は「思いつき」。この字を思いつきの意で用いるのは日本独特のこと(※下記))。「いぢくり」「ほじくり」「こねくり」「ぬたくり・のたくり」「ちちくり」「ちゃちゃくり」などは他の動態に添えられ、回転し続けるように何かの動態や状態が続いていくことを表現する。また、何かに刀などを刺してそのまま回し切るような動態も「くり(抉り)」と表現する。「くり抜く」。「ゑぐり(抉り)」はその項参照。

「蓴(ぬなは)繰(く)り(久理) 延(は)へけく知らに…」(『古事記』歌謡45:「はへ(延)へ」は「はひ(這ひ)」の他動表現であり、影響をおよぼした、のような意ですが、蓴(ぬなは)を繰(く)り影響をおよぼした、とは、ある女性に心ひかれ(その女性を繰り寄せる思いになり)、思いがその女性におよんだことを言っている。この歌は応神天皇が、息子(仁徳天皇)があの女性に心を寄せているとは知らなかった、迂闊だった、といっている歌)。

「をみなへし……いつかもくりて(絡而)我が衣(きぬ)に着む」(万1346:この「くり」も絡(から)めとるように手前にひくこと)。

「誰が母ぞ花に数珠くる遅ざくら」(「俳諧」)。

※中国語の「勘(カン)」は照らし合わせて調べたりすること(→「勘案(カンアン)」)であり、日本語の、深みからやって来るような考え(→「勘(カン)が働く」)、のような意味は中国語にはない。それにしても、「勘」の字は、その意は『説文』に「校也」と書かれるような字なのですが、その音(オン)はなぜ「カン」なのでしょうか。「甚」の音(オン)によるとも言われるのですが、その音(オン)は「ジン」です。「カン(看):見る、観察する」がこのような字で書かれているとか、そういうことなのでしょうか。ちなみに「勘」の字は「甘(あまい)」と 「匹」(「合也」「二也」と言われるような字。たとえば男と女の合)と 「力」の合字であり、一体化を求め力に引かれて深みへ入っていくような状態を表現する。これが、あれこれ照らし合わせて深く考えることを表現する。

(参考)

「縿車 唐韻云縿 ……訓久流 絡糸取也」(『和名類聚鈔』:「縿(サン)」の字は「繅(サウ)」の字が『廣韻』に「俗又作縿」と言われるような字であり、つまり、「繅」の俗字。「繅」は『説文』に「繹繭為絲也(繭を抽(ひ)いて糸にする(「繹」は『説文』に「抽絲也」))」。つまり、繭から糸を引きとることを「くる(久流)」と表現しているわけですが、その際、繭は転がるような動態になる。製糸には木綿によるものもあるわけですが、「くり(繰)」という動詞は絹の製糸作業から生まれた動詞かもしれない)。