◎「くらべ(比べ)」(動詞)

「くらみをへ(座見終へ)」。「みをへ」が「べ」になっている。「くら (座)」はそれに乗っているものの立場、地位、社会的な格、意味、価値その他をあらわし(→その項)、動詞「み(見)」は、それは何なのか、それはどういうもの・どういうことなのかの思考が起こり、調べ、判断することも表現し(→その項・「医者に診(み)」てもらう)、「をへ(終へ)」は、何かに対し全的に、すべて、対象としての経過処理がなされた動態になること((→その項))。すなわち、「くらみをへ(座見終へ)→くらべ」は、あちらを見、こちらを見、その相互の地位やら、格やら、つまりその意味や価値、の関係を調べ考えるという経過処理がなされた動態になる。そこには、客観的な二つの座(くら)を見、その違いが知られる場合と、自己の座(くら)と他の座(くら)を見、完全に理解し合う場合がある。後者の場合は、双方が理解し合い、その関係が非常に親しい、親密なものになる。つまり、違いが知られる場合と違いのないことが知られる場合があるわけです。

「大乗の妙典は蕩蕩(タウタウ:広大なこと)にして込(くら)べがたし」(『東大寺諷誦文稿』:違いを知り、さらにはその優劣を知ることはむずかしい。比較しがたい)。

「年ごろよくくらべつる人々なむ別れ難く思ひて」(『土佐日記』:年ごろ、親密な深いつきあいのあった人々。これは、年来よく比較した人々、という意味ではない)。

「をんなのいとくらべかたく侍りけるを、あひ離れにけるが、こと人に迎へられぬと聞きて」(『後撰集』:これは、(女と)「くらべ」(親密な関係)が堅(かた)かった、という意味ではなく、「くらべ難(がた)く」(親密になり難く)という意味でしょう。この詞書で書かれた歌は「我がためにおきにくかりしはしたか(鷂)の人のてに有りときくはまことか」)。

「くらべぐるし(くらべ苦し)」という表現がありますが、これは、比較して判断をくだすことがむづかしい、という意味になる場合と、親密な深い関係になることがむづかしい(親密な深い関係になることに障害感がある)、つきあいにくい、という意味になる場合がある。前者は、くらべがたい(比べ難い)、判断や評価ができない、どう考えたらよいかわからない、のような意ですが、後者の例としては「(大后は)老いもておはするままに、さがなさもまさりて、(息子の)院もくらべ苦しう、たとへがたくぞ思ひきこえたまひける」(『源氏物語』:つきあいにくい、あつかいにくい、のような意)。

 

◎「くらひ(食らひ)」(動詞)

「くら(倉)」の動詞化。「くら(倉)」になること。「くら(倉)」になったような状態になること。そこには次々と様々なもの、さらにはこと、が多量に入れられる。また、「くら(倉)」には人間としての尊重感はない。この表現が飲むことや食べること、その貪欲さ、を表現し、それを卑しめた表現になる。

「『奥山に猫またといふものありて、人をくらふなる』と、人の言ひけるに…」(『枕草子』)。

また、(受け)入れるものは望んでいるもの・こととは限らない。「打撃をくらふ」。「くそくらへ」。

「薬を餌(クラフ)方法を問ひて、既に善く了知しぬ」(『金光明最勝王経』:薬の場合は、食(く)ふ、や、食(た)べ、ではなく、ただ、体内に入れる、と表現されたということ)。

「楫取もののあはれもしらで、己(おのれ)し酒をくらひつれば…」(『土佐日記』)。

「不意をくらったもんだから身振(みぶるひ)をしながら…」(「滑稽本」)。