「くちたみもの(口彩み物)」。動詞「たみ(彩み)」(後には濁音化して「だみ」になる)は、装飾をつややかに、さらには彩(いろどり)として鮮やかに美しく、すること。「くちたみもの(口彩み物)→くだもの」は口で、味覚で、それが起こるもの(そこにはその、つやつやとした、水気も影響しているでしょう)。つまり、日常的なものではなく、そこに特別な、とりわけ、つややかな、彩(いろどり)となるようなもの。食べ物におけるそれ。つまり、「くだもの(果物)」は、口につややかな彩(いろどり)をなすもの、のような意。具体的には、事実上、ほとんど木の実が言われ(下記『和名類聚鈔』には「くさくだもの(蓏:草果物)」という語もある)、たとえば桃や柿や梨。それらは主食として日常的に食べるものではないが、季節感ということもあり、食べることに彩(いろどり)を添える。意味発展的に、酒に添えられる食べもの、酒の肴(さかな)、がそう言われることもある。

「菓蓏 唐韻云 説文木上曰果 字或作菓 日本紀私記云 古乃美 俗云久太毛乃 地上曰蓏…和名久佐久太毛乃」(『和名類聚鈔』:「説文木上曰果」(『説文』に木上を果と曰(い)ふ)とは『説文』にある「果 木實也…象果形在木之上」(「果」は木の上に在ることの象形)のことか?。『説文』の「蓏(ラ)」の項には「在木曰果,在地曰蓏」(木に在るを果と言い、地に在るを蓏と言う)とある)。

「蓏 …クサ クダモノ クサノミ カツラノミ」(「カツラノミ」は、葛の実、であり、ヤマブドウでしょう)「肴 …サカナ…クダモノ」「菓子 クダモノ」「果 ……コノミ…クダモノ」「菓 …クダモノ コノミ」(以上『類聚名義抄』:「蓏(ラ)」の「クサ クダモノ」に関しては、そのように書かれてはいますが、「蓏」は上記のように「在木曰果,在地曰蓏」であり、これは「クサクダモノ」の誤記でしょう。たぶん、原本であれ写本であれ、書き手が原稿を誤読した。「蓏(ラ)」に、くさ(草)、の意はないです)。

「『其御重の内で御座らば、定(さだめ)て御菓子の類で御ざりませう』『先(まづ)、いふて見よ』『まんぢう(饅頭)か羊羹などでは御座らぬか』『イヤイヤ、その様な物では無い』『夫(それ)成(な)らば、くだ物のたぐひでは御座らぬか』『夫(それ)もいふて見よ』『只今時分の事で御ざるに依て、なし(梨)か柹(かき)などでは御座らぬか』『いやいや』…」(「狂言」『くりやき(栗焼)』:この狂言の時代には「菓子」は、木の実ではなく、「饅頭(マンヂウ)などの」、人工的に作られた嗜好食品になっている。「くだ物」は梨や柿)。

 

※ 「ヤサイ(野菜)」と「くだもの(果物)」はどう違うのかということも言われますが(よく言われるのが、同じウリ科なのにキュウリは野菜、メロンは果物。ウリ(瓜)は?)、これは社会的な問題であって、常(いつ:普段(下記※))の食用植物で管理栽培が一般的なら「ヤサイ(野菜)」、野山に採取に行くようなものなら「サンサイ(山菜)」、「常・普段(いつ)」ならぬ食用植物で、「常・普段(いつ)」ならぬということはそれがなる時期の、つまり実(み)の、ものであるのが「くだもの(果物)」ということでしょう(「け(褻)」と「はれ(晴れ)」で言えば「褻(け)のもの」が野菜で「晴(は)れのもの」が果物。そして「はれ(晴れ)」は季節によってもたらされ、それは事実上実になる。実であっても米や栗は「け(褻)」のもの、普段のもの、であって果物にならない。実のような根塊、芋も、たとえそれがどれほど甘いサツマイモであったとしても、「け(褻)」のもの、普段のもの、であって果物にならない)。ちなみに、「野菜(ヤサイ)」という語を、常(いつ:普段)の食用植物で管理栽培されているもの、という用い方をするのは日本でのことであり、日本での「野菜」は中国では「蔬菜(ソサイ・シューチァイ)」。中国での「野菜」は日本での「山菜」。「山菜」は和製漢語でしょう。中国でこれを言うと、山の野菜、のような意味か。日本語の「やさい(野菜)」は元来は「やサイ(屋菜)」でしょう。(庭のような)家の管理下にはいるところで育てている菜(な)。「繞籬野菜助清貧」(『艸山集(サウザンシフ)』:「籬(まがき)繞(めぐらす)野菜、清貧を助く」。この「野菜」は人の管理下に入っている)。『和名類聚鈔』の「菜蔬部」では「園菜」と「野菜」に分類されているのですが、これは中国語による分類をしたということでしょう。ここで言う「園菜(エンサイ)」が「やサイ(屋菜・野菜)」だということ。

 

※ 常・普段の意の「いつ」

「梅の花いつは折らじと厭(いと)はねど...」(万3904:普段は折らなくてもなんとも思わないが...)。

「あなたはいつもそうよ」。