◎「くし(奇し)」(形シク)

「きゆゆし(来由由し)」。現れて起こることの影響がはかり知れず深奥であることの表明。「くしみたま(奇し御魂)」。「くしくも」。現代では、「くしくも」などは、感銘をうけることに、といった程度の意味で用いられているでしょう。

「此位(このくらゐ)は天地(あめつち)の置賜(おきたま)ひ授賜(さづけたま)ふ位(くらゐ)に在(あり)。故(かれ)是(ここを)以(もて)朕(あれ)も天地(あめつち)の明(あきらけ)き奇(くし)き徴(しるし)の授賜人(さづけたまふひと)は出(いで)なむと念(おもひ)て在(あり)」(『続日本紀』宣命)。

「…神(かむ)ながら神(かむ)さびいます 奇(く)し(久志)御魂(みたま) 今のをつつに 尊(たふと)きろかも」(万813:「をつつ」は「うつつ(現)」。「~ろかも」は、まったく~を感じさせる様子だ、の意→「ろ」の項)。

 

◎「くすし(奇すし)」(形シク)

「くしゆゆし(奇し由由し)」。「くし(奇し)」の状態が由々しいものであることの表明。

「…言ひもえず 名づけもしらず 靈(くす)しくもいます神かも…」(万319)。

「天津奇護言を 古語云久須志伊波比許登(くすしいはひごと)」(「祝詞」・大殿祭(おほとのほかひ))。

「『……このさまざまのよき限りをとり具(グ)し(よい点だけを備え)、難ずべきくさ(種)はひまぜぬ人は(難点の這ひ混ざらない女性なんて)、 いづこにかはあらむ(どこにいるだろう)。 吉祥天女を思ひかけむとすれば(吉祥天を思えば)、(それは)法気づき、 くすしからむこそ、また、わびしかりぬべけれ(それはそれでわびしい)』とて、皆笑ひぬ」(『源氏物語』:平安時代ころになると、「くすし」という語に、あまりに奇(く)しき思いに沈溺し自己に埋没してしまっているような状態になっていることへの抵抗感、うんざりするような思い、が表現されるようになる)。「われはと、くすしく、くひもち、けしきことごとしくなりぬる人は…」(『紫式部日記』:「くひもち」は、首持ち、であり、(首を維持したその)首つきに現れるその人の性向。ただし、この部分、異なった読みもある)。

「くすしみ(奇しみ)」という動詞もある。「…ここをしもあやにくすしみ…」(万4125)。

 

◎「くじふる」

「けひにじふる(異日虹生る)」。「けひ」が「く」の音(オン)になっている。「けひにじ(異日虹)」は、通常では有り得ない日(太陽)、そして虹。これは、通常ではあり得ない日、奇跡たる日(太陽)、が虹のように現れるということでしょう。「ふる(生る)」は「たまふり(魂生り)」のそれであり、H音の感づきの語感とU音の動感により感覚的な発生感が表現される。この「くじふる嶽(たけ)」に天孫が降臨した。『古事記』での表現です。

「于竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穗(たかちほ)の久士布流(くじふる)嶺(たけ)に 自久以下六字以音 天降(あまくだ)り坐(ま)さしめき」(『古事記』)。

『日本書紀』では「槵觸之峯」が「くじふるのたけ」と読まれています。「槵(クヮン)」は、「無槵 木名」、「皮子可澣」(「澣」は「濯」:要するに洗濯)、「燒之極香」、「辟惡氣」、「一名無患」、「昔有神巫」、「槵子實可去垢」(その実は洗濯に使える)、「核黑如𣘦」(その種子は黒い)といったことが中国の書に書かれる字。ようするに木の名であり、ムクロジでしょう。「槵觸之峯」という表記は、清潔な印象の木であり、字にある「串」が「くし」と読まれ「槵觸→槵(くじ)觸(ふ)る」ということでしょう。ようするに、「くじふる」は古語になっており、『日本書紀』書記者には意味がわからなかったのです。山だから木、ということ。

この語に関しては語源説らしいものはありません。人々はただ「くじふるたけ」という名の山を探しています。説としては、「奇(く)しへ」という動詞の連体形であるとする説もありますが、これは動詞の構成としても不自然であり、そのような動詞もない。また「くじ」は「亀旨(クシ)」という漢語だとする説もあり、亀(かめ)の旨(むね)、とは、亀の甲羅を使った占い、卜占、の旨、すなわち天意、ということでしょうけれど、これは朝鮮(韓国)の首露王なるものが天降った山が「亀旨峯」だ、とするものなのですが、朝鮮(韓国)の国の始祖たる王が天降った山の名が中国語というのも奇妙でしょう。この「古来の伝承」なるもの自体、朝鮮(韓国)の人名も地名もすべて中国語という状態になった、そうとう後世に作られたものでしょう。