「くきはたたち(潜き将断ち)」。「くき(潜き)」は潜(もぐ)るようなことをすること(さらには潜(くぐ)るようなことをすること)ですが(→「くき(潜き)」の項)、この場合は熱湯にもぐる。「はた(将)」はどのような結論にも疑問・疑惑があり判断がつかない状態になっていることを表現する(→その項:「『はた、敗らるること無からむや…』」(『日本書紀』)。「もしここに留(とど)まらむとや、はた、本郷(もとのくに)に向(い)なむとや欲(おも)ふ」(『日本書紀』))。熱湯に「くく(潜く):もぐる」ことがその「はた」を断(た)ち、決着をつけ確かな結論、判断結果、を出す。熱湯に手を入れ底にある何かをとっても嘘や誤りのない正しい者の手はただれず、そうでない者の手はただれるそうです。これは古代の裁判手続です。ヨーロッパには赤く焼けた鉄の玉を手で取り上げたりその上を裸足で歩いたりという古代の裁判手続がありました(※下記:古代の日本にも同じようなことはあったらしい(下記))。これも真性を保障しようとする努力ではありますが、判断がつかなくなると人はそういうことをしてでも平安を得たくなるということです。

「盟神探湯、此(これ)をば区訶陀智(くかたち)と云ふ。或(ある)いは泥(うひぢ)を釜(なべ)に納(い)れて煮沸(にわ)かして、湯(ゆ)の泥(どろ)を手探(てさぐり)攘(つか)む。或(ある)いは燒斧(をの)を火(ひ)の色(いろ)に燒(や)きて、掌(たなうら)に置(お)く。是(ここ)に諸人(もろひと)、各(おのおの)木綿手繦(ゆふたすき)を著(し)て釜(なべ)に赴(ゆ)きて探湯(くかたち)す、則(すなは)ち實(まこと)を得(う)る者(ひと)は自(おのづから)に全(また)く、實(まこと)を得(え)ざる者(ひと)は皆(みな)傷(やぶ)れぬ。是(ここ)を以(も)て、故(ことたへ)に(念入りに)詐(いつは)る者(ひと)は愕然(お)ぢて、豫(あらかじ)め退(しりぞ)きて進(すす)むこと無(な)し」(『日本書紀』允恭天皇四年:『類聚名義抄』の「攘」に「ツカム」の読みがある。「攘」は『説文』に「推也。又竊也」とされる字。「竊」は盗み取ってしまうことですが、手に触れた物を自分の物にする、という意味で、ツカム、か。ちなみに、允恭天皇四年のこの「盟神探湯(くかたち)」は刑事裁判ではありません。これは姓(かばね)に関しその失(あやまち)を擧(あ)げ枉(まが)れるを正すためにその實(まこと)を知ろうとするもの)。

 

※ ヨーロッパの「神判(Ordeal)」は刑事裁判であり、「熱鉄審(judgement of the iron)」と「水審(judgement of water)」があり、「熱鉄」の方は赤く焼けた鉄球をとりあげたりするわけですが、「水」の方は熱湯に腕を入れたりもしますが、水に放り込まれたりもし、「熱鉄」の方は上層階級の者に対し行われ、「水」の方は一般庶民に対し行われたそうです。「熱鉄」の方が高貴であったらしい(より過酷だからということか)。