「ギャウホフぎえゆゆし(行法消え由々し)」。これは、最後の「ゆ」のY音は退化し、ぎょふぎょうし、のような音になるでしょう。「行」は呉音「ギャウ」漢音「カウ」。「法」は呉音「ホフ」漢音「ハフ」。「行法(ギャウホフ)」は、法(ホフ)を行(おこな)う、ということですが、ものごとには、そのものごとに関してのみではなく、そのものごととそれが現れる情況、社会的環境との関係に関しても、あるべき、あるはずの、あり方、というものがあり、そうした、あるべきあり方が「行法(ギャウホフ)」。それを行うことで、周囲の人は、あの人は法を行い、法に従っている、と安堵します。なにごとかのものごとの現れ方が、その、ものごとにあるはずの「法」が消え、それが由々(ゆゆ)しい事態になっていることが「ギャウホフぎえゆゆし(行法消え由々し)→ぎゃうぎゃうし」。ここでは表記は「ぎゃうぎゃうし」と書きましたが、それはそれが後には相当一般的になっていく表記だからであり、この語は当初からそのように表記されているわけではなく、室町時代にはむしろ「げうげうし」「ぎょうぎょうし」と書いた。この「げう」は「きょう(今日)」を「けふ」と書くような表記法によるものでしょうし、表記が「ぎゃう」になっていくのは「仰」(漢音「ギャウ」呉音「ガウ」)の影響、「ぎゃう(仰)に」という表現の影響(→「(桜が)ぎゃうに咲く」:「ぎゃう」の項・9月2日)、によるものでしょう。漢字表記も、古くはいろいろとありましたが、やがて「仰仰し」が一般的になっていきます。

つまり、「ぎゃうぎゃうし(仰々し)」は、あるものごとに、そのものごとが当然それにもとづいていると思われるあるべきあり方が失われていること。そのものごとはなくなり、他のものごとになっているわけではありません。そのものごとにあるはずの法がない。そうしたものごとを経験することの衝撃性が「仰」(のけぞるように上を仰ぎ見る)で表現されるようになっていきます。

 

「爗々ハゲウゲウシウ(雷(いかづち)が)鳴タナリソ」(『毛詩抄』:「爗」は『説文』に「盛也」とある字。音は「曄(ヨウ・エフ)」と同じらしい。これは「爗」の解説としてある文章の一部であり、その前の部分には、稲光・雷(いかづち)が今うち殺されると思うほどに鳴り、「イツモアル物ナレトモキモヲツフス程ニナルソ」だそうです。つまり、稲光・雷(いかづち)が普段の(法に従っている)状態ではなくなっているのです。それが「ゲウゲウシウ」鳴っている状態)。

「指過タル事ヲ キヨウキヨウシヰ ト云ハ何レノ字ヲ可用ソ(用うべきぞ) 業業ト書へキ歟…」(『壒嚢(アイナウ)鈔』:「業業」の音表記は「げふげふ」。ようするに、この著者は「ぎょうぎょうし」の語源は「業業し」ではないかと言っている。業(わざ)業(わざ)し、は、わざとらしい、や、大げさ、ということでしょうか)。

「凝凝 ゲウゲウシ」(『説用集』(出版者・林宗二:室町末期):これは「ゲウゲウシ」は「凝凝し」だということか。正確には「凝」の音(オン)はギョウ。意味は、凝(こ)っている、ということ)。

「希有希有敷 ゲウゲウシク」(『運色葉集』(1571年筆写):これは「ゲウゲウシ」は「希有希有し」だということ。「希有(ケウ)」の意は、極めて稀(まれ)、ということ)。

「Guiôguôixij, Vobitataxij coto(おびただしいこと).…」(『日葡辞書』:「Guiôguôixij」は、ぎょーぎょーしい、のような音になる)。

「ぎやうぎやうしい白むく著(き)たは、討ち果しての何のといふおどしでも見せでもない。思ふ願ひが叶はずば…」(「歌舞伎」(そして「浄瑠璃」)『傾城反魂香』)。